すっとこどっこい

チャリヘスさん

都立の青山霊園外国人墓地にあるお墓です。

カール・ヤコブ・ヘス  CARL・JACOB・HESS”

1838年 スイスのチューリッヒに産れます。

若い頃パリに出てコックの修行を積みます。コンクールで一等を取ったパイ作りが得意料理です。

細かい経緯は不明ですが上海を経て神戸に来ます。そして入籍はしていないようですが、綿谷よ志と出会い結婚します。その後横浜へ出てから中央区へ来て生涯を終えた人です。

フランス系スイス人と言われます。パリで修行していたのでフランス語は堪能です。CARLは英語で言えばCHARLES(チャールズ)です。フランス語ではシャルルと読むのでパリ時代はそう呼ばれていたと思われます。上海や日本では英語が主に使われていてチャールズの愛称チャーリーと呼ばれ自分でもチャリヘスと名乗ったようです。

ただ本人の素性は確認の取れた話ではないようです。スイス生まれなので公用語でもあるドイツ語も話せますし名前の感じではドイツ系スイス人にも思えます。ユダヤ人だと考える方もいるようです。現時点では不確定です。

 チャリヘスさん

明治新政府は諸外国と締結した不平等な条約の改定や欧米の文化文明をとり入れたく、岩倉具視を団長に使節団を欧米に送ります。元々仏教の不殺生の教えから表向き肉食を禁じていた日本は外国人を受け入れる食事がほとんど無く、北村重威(しげたか)は東京に外国の要人を持て成すホテルや西洋料理店がないことを国の恥と思っていました。岩倉具視の側用人だった52歳の彼は年齢制限の為、使節団からは外されますが、岩倉や国の援助もありその経営に乗り出します。1871年(明治4)に欧米に旅立つ岩倉具視に日本で働けるシェフを探して欲しいと頼むことは想像できます。

北村重威は1872年、馬場先門にて築地西洋軒ホテルの開業にこぎつけます。旧暦明治5年2月26日がオープンですが、当日和田倉門内の会津藩屋敷から出火し、強風に煽られ丸の内から銀座、木挽町、新富町、築地など広い範囲が丸焼けです。築地西洋軒ホテルは開業一日で全焼してしまいました。

同じ火事で日本人の手による初の様式ホテル築地ホテル館も全焼し、以後再建されること無く開業からわずか4年で幕を閉じます。

しかし北村重威は仮営業ですが、2ヵ月後には木挽町にて西洋料理店を始めたようです。

 チャリヘスさん

そして1873年(明治6)海軍払い下げ地の京橋區采女町32-33番地に築地精養軒ホテルを開業します。三階建てペンキ塗りのハイカラな木造建築です。

現在は銀座5ー15-8上記写真の時事通信社ビルです。それ以前は銀座東急ホテルでした。

精養軒の名前は馬場先門で仮営業した築地西洋軒の西洋と肉を食することでの滋養の意味で付けられたようです。この築地精養軒ホテル初代料理長カール・ヤコブ・ヘス つまりチャリヘスさん と言われます。

ただ初代料理長は別の人だと主張する方もいます。明確に書き残された書類などは残っていません。

そもそもチャリヘスさんはいつ日本に来たのでしょうか。

使節団の岩倉具視とはパリで出会い、日本行きを口説かれたと想像されています。ただ1873年9月に帰国した岩倉の一行にチャリヘスさんの名前は載っていません。別便で神戸へ着いたようです。

築地居留地研究会の古川鮎子さんはチャリヘスさんの最初の弟子 溝口重三郎が曾祖父です。彼女が記した昭和61年9月刊の別冊専門料理の ”フランスパン祖 チャリ舎の足跡をたどって” を読みました。チャリヘスさんの孫(夫婦は子供に恵まれず養子を取った)と会う機会を得て、実母が養親から聞いた話として「1869年か70年に神戸にいて、71年に横浜のパン屋で働き、72年に木挽町の築地西洋軒に関係した。」と聞きます。

築地居留地に詳しい川崎晴朗さんの ”精養軒の歴史” にもそのような年号で想像されています。ただ外国人名簿の名前は誤記も多く(当時はアルファベットに慣れた人も少なく、聞き取りも不十分)セカンドネームが違うヘスさんも登場します。フランス人と記されたヘスさんもいます。料理人のヘスさんとパン職人のヘスさんがいて同時期に別々に存在していたと考える方もいます。当時はパン職人が料理人であったと説を唱える人がいて同一人物だという人もいます。これからも研究が続きます。

 チャリヘスさん

この写真は築地7丁目のマンションです。少し前までは北海道ぎょれんビルでした。明治期の住所は南小田原町3丁目で、当初の新栄町7丁目一番地(今の入船)からここに移転したチャリ舎というフランスパンや食パンの製造販売工場がありました。

チャリヘスさんが横浜から木挽町での料理長となったであろう1872年の秋に新橋・横浜間で鉄道が開通します。采女町の築地精養軒ホテルの開業前後、チャリヘスさんは汽車に乗ります。乗車した時期も、すでに飲んでいたのか、車内で飲んだのかも分かりませんが、酔っ払ったために落下して、結果片腕を失いました。

その後も築地精養軒ホテルでは料理指導をしていたようですが、そこにはパンを製造する設備がないので自ら工場を立ち上げ独立したようです。弟子達の証言では片手で器用にパンをこねています。溝口重三郎種もちと呼ばれる重要な仕事を任されたようです。独自の酵母菌を育て維持する仕事です。一子相伝のような考え方をされてたようでその仕事内容育て方など書き残されたものはないようです。横浜のパン屋と違ってチャリ舎ではカナダ産の小麦を使います。アメリカから船で運ばれる小麦はメリケン粉と呼ばれます。独自の美味しさを引き出したチャリ舎のパンは日本のフランスパンの開祖と言われました。

パン以外にも炭酸飲料水を製造します。ラムネと呼ばれたものですがチャリ舎はシャンペンサイダーと称したようです。飲料工場は別棟で水やと呼ばれていました。

支店の関係のような築地精養軒ホテルだけでなく新宿の中村屋や日比谷の松本楼帝国大学などが得意先になります。納品に向かう箱車がそれぞれの得意先別でずらっと並ぶ、100人以上の人が働く大工場になります。のちには鉄道の食堂車にも納品します。関東大震災で築地は閉鎖されますが、弟子たちによって京橋でパンの店として営業されます。弟子の一人の孫が最近まで祖師谷で看板がチャリ舎のパン店を出していたそうです。

ただチャリヘスさんはサイダー製造のポンプ修理をやっている時、機械に挟まれて、今度は指を二本切断してしまいます。それでもパイ生地をこねていたそうです。

 チャリヘスさん

築地精養軒ホテルも東京で初めての西洋料理店として西洋文化を広めます。

様々な文豪たちともエピソードが残ります。森鴎外がドイツ留学した時の彼女が彼を追って日本に来ます。親戚中が彼女を追い返しますがその間彼女が泊まっていたのが築地精養軒ホテルです。小説 ”舞姫” のモデルだと言われるエピソードの人物です。

欧米視察から帰国した岩倉具視の勧めもあり上野公園開設に伴い、食事と園内の社交場として上野精養軒を開業し支店を出します。夏目漱石の ”三四郎” に出て来ます。高村光太郎上野精養軒で結婚披露宴を行います。小泉八雲は足繫く通ったようです。沢山の文人が使用した名店です。

築地精養軒ホテルは関東大震災で全焼してしまい上野精養軒が本店としてその流れを受け継いで行きます。

外国人シェフは調理はせずに指示をして、実際の料理は指導された日本人がやっていたと言う方もいます。パンの製造設備がなかったとされる築地精養軒ホテルで、片腕のチャリヘスさんならそう考える方が妥当かもしれません。西尾益吉など多くの料理人を産み出していった精養軒ですが、築地当時の料理の資料は残されていないと言われ、酵母の培養と同じくチャリヘスさんがどのような料理を提供したか、指導したかは不明です。ただ天皇の料理番で有名な秋山徳蔵は、チャリヘスさんが晩年に、秋山徳蔵に対してフランス料理のノウハウをドイツ語で書き残したと発言しています。

 チャリヘスさん

上記写真は銀座一丁目、入船堂本店があった場所です。紐で下げた板に煎餅を乗せ、芝居小屋で ”おせんにキャラメル” と売られていたおせんが入船堂の塩煎餅だったそうです。チャリヘスさんの大好物です。

59歳で亡くなる時、「縮緬の浴衣と入船堂の塩煎餅とおよしさんがいて、日本に来て本当に良かった。ありがとう」との言葉を残します。

日本を愛してくれたチャリヘスさんは、遺言でお寺に眠りましたが、来日した弟さんによって最初の写真の青山墓地に埋葬されました。片仮名で ”チャリヘッス” と刻まれていました。

 

時が立ち、まだまだ知られていないことも沢山あり、不確定なことがあります。

でも日本を好きになってくれ、日本の食に多大な影響を与えてくださったことは間違いないことです。

 こちらこそ ありがとうございます。