東京八重洲口大丸東京店が1743享保3年江戸店に
進出していた場所を大伝馬町で発見!
現在の大丸東京店は東京駅八重洲口にあります。大伝馬町近辺を散策していると、大丸の歌川広重の浮世絵がボーンと目に飛び込んできました。一体何だろうとよーくウィンドウを見ると、大丸の江戸店は以前は大伝馬町3丁目にあったことに気づきました。
大丸の歴史を紐解きますと、
1717享保2年京都伏見に、下村彦右衛門正啓が「大文字屋」を創業
1726享保11年大阪木挽町北之丁に大坂店(おおさかだな)「松屋」開店
1728享保13年名古屋本町4丁目に「大丸名古屋店(なごやだな)」初めて大丸と称する。
1737元文2年京都東洞院船屋町文字屋に「京都総本店」開店
1743寛保3年江戸日本橋大伝馬町3丁目に江戸店(えどだな)開店
ここは旅籠通りで、人が賑わっていたようです。
1748寛延元年5月15日創業者下村彦右衛門が逝去
1795明治28年10月15日-3日間大売り出し。20円以上買い上げ客2000人余りに食事をだし、話題になる。
1907明治40年12月資本金50万円で、「株式合資会社大丸呉服店」を設立。本店は東京市日本橋区通旅籠町
1910明治43年本店を東京から京都に移転。東京店閉店
1954昭和29年東京駅八重洲口に東京店開店。初日に20万人が来店。日本初のパートタイマー制を導入
2007平成19年11月6日グランドトウキョウノースタワーに移転
創業者 下村羽左衛門正啓の経営理念
1688元禄元年に京都伏見京町北八丁目に生まれる。
父・下村三郎兵衛兼誠は摂津国茨木の武将中川氏の家臣の子孫で、大坂の陣後に商人になる。
正啓はその三男として跡継ぎになり、19歳の時、古着屋「大文字屋」を継ぎ、行商を始める。
30歳で京都伏見に小店舗を開いたのち、八文字屋甚左衛門と共同出資で心斎橋筋に「下村松屋」を開店
1731享保13年単独経営名古屋店から「大丸」と名乗る。「大」の文字は「一」と「人」を組み合わせて成り立ち、「丸」は宇宙を表し、「天下一の商人になろう」という志を示した。
律儀な誠実な性格で、「現金正札販売」をモットーに豪商になっても『先義(而)後利(者栄)ー義を先にして利を後にするものは栄える』義とは「商売における正しい道」「公共のために尽くす気持ち」を意味し、「顧客第一主義」に徹すれば、利益あ自ずからついてくる」という考えに徹する。
毎年冬になると施餓鬼(せがき)として、貧しい人に食べ物や古着や金銭を施し、人の集まる寺社に大丸マークつきの灯籠や手拭いを大量に寄付するなど、今でいうボランティア活動を行って利益を社会還元していました。
大塩平八郎の乱の際に、義商であることから襲撃の対象から平八郎の指示で逃れていた。
背が低く頭が大きく、耳たぶが垂れ下がった風貌で、人情に厚く商売を成功させたことから「福助人形伝説」の一人として伝えられるようになった。
歌川広重 名所大江戸百景 『大伝馬町こふく店』
国会図書館デジタル
【解説】1855安政2年の大地震で江戸の町は被災しました。御幣(ごへい)を担いだ棟梁を先頭に、大工の一行が通過します。
大の字の暖簾は呉服店の大丸屋です。
歌川広重 名所大江戸百景 『大てんま町木綿店(もめんだな)』
国会図書館デジタル
【解説】大伝馬町には木綿を扱う商家が並んでいました。店の奥には、木綿の反物を前に話をする人物がか今見えます。粋な着こなしで店の前を行くのは辰巳芸者です。
大丸の江戸進出での商い
〇1743寛保3年大丸マークを染め抜いた萌黄色の風呂敷を大量に作り、商品を包んで運んだので、派手で目立つ風呂敷が江戸っ子の間で話題となり、開店前から認知された。風呂敷自体が江戸前期では、風呂屋に行くときにすら使われていなかったのにもかかわらず、大流行しました。
〇1750寛延3年風呂敷の売り上げが14.500枚だったのが、1828文政11年には60.670枚と4倍として定着しました。
ここで、越後谷、白木屋と並ぶ江戸三大呉服店となりました。
『奮聞日本橋』長谷川時雨 昭和10年2月6日発行 「大丸呉服店」参照文献
上記の絵図は、大丸呉服店の一部
「店の一部で、入口では小僧が『お入りなさい』『お入りなさい』と呼んでいる。中央では大茶釜でお茶を出す。
番頭は自分の名前を下げておく。お客は名札を見てそこを行って品物を買う。
買上の金高により昼時なら御膳が出る。お菓子、そばは當りである。店の商法は柱の札にある如く、『正札付かけ値なし』である。
大丸の所在地は実際は通旅籠町大門通りの角であるが、同店の印判には大伝馬町三丁目とあった。
ここに一つおかしい話がある。同店は通旅籠町にあるのでこの町の木戸が打ちつけてあるが、これをはぎ取る者がいて、度々とられるので何者がかかることをと、犯人を捕らへてみるとこれが大丸の下男、この男の言分は店は永年大伝馬町三丁目にて売り込んで来たものを、店の角に通旅籠町とあってはお店のためにはなりませぬとのこと。
忠義な下男もいるものである。
大伝馬町4丁目(この一町だけ旅籠通り旅籠町)大丸呉服店では一月一日表戸を半分下ろして、店を大広間にして金屏風を立てまわし、元日一日は、三四百人の番頭・若者、小僧一同に大層なご馳走が出る。お酒も出る。福引その他、実に一年中を一日に楽しませるので、近所の子どもなども皆女中小僧を連れて遊びに行き、羽根をつくやら、鞄投げ揚弓、踊り、三味線もあり、いろいろと楽しませ夕方帰りには、山ほど土産をそれぞれにくれました。
大丸は一度は1910明治43年東京から撤退するも、再度出店して今は東京駅のシンボルとして不動の百貨店としての存在感を示しています。
『大丸のみせは高尾の屋敷のあと
大丸の傾城どもが夢の跡
大丸のあたりすがかき弾いたある』
参考文献
大丸 ウイキペディア
「奮聞日本橋」長谷川時雨著(明治初期・時雨の祖母の日本橋の様子の聞き取りの名の「大丸屋」を抜粋)
「日本橋旧聞」長谷川如是閑著
国会図書館デジタル・解説
大丸の歴史