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池波正太郎 兜町の青春 

池波少年が使い走りに飛び回っていたころの東京株式取引所=中央区立京橋図書館所蔵

「そのときの生活がなかったら、小説なんか書けなかっただろうね」。

今年、生誕百年を迎えた池波正太郎がかつて著作の中でこう振り返ったのは、小学校を出て兜町界隈の株式仲買店で働いた七年ほどの歳月でした。笑いが止まらぬほどの稼ぎを、美食に、映画や芝居見物にと豪快に使いまくった足跡をたどってみると——。

「蕪」と「株」の区別もつかない池波少年の最初の奉公先は、茅場町の小さな現物取引の店。ここから現在の東京証券取引所の前身、東京株式取引所への使い走りが初仕事でした。今と違って、立会場内は耳を弄する場立ちの声と熱気で騒然とした修羅場。紺の詰襟服を着た十三歳の少年には、さぞかし強烈な刺激だったことでしょう。

 

 池波正太郎 兜町の青春 

兜神社の鳥居越しに見える中央の白いビルの場所に、かつて働いた松島商店があった

一年足らずで、今度はより大きな株式仲買店の松島商店へ。取引所の裏隣り、兜神社とは道を挟んで真向いのビルで、今度は住み込みではなく、浅草の自宅からの通いです。

 

当時とりわけ楽しかったのが、株券の名義書き替えのため自転車で丸の内や銀座に出向く会社回り。モダン都市・東京中心部の瀟洒な街並みに夢見心地の少年は、おっかなびっくり入った「資生堂パーラー」で「ポーク・カットレッツ」の洗練された味に衝撃を受けます。

 池波正太郎 兜町の青春 

以来、仕事の合間に東京会館の「プルニエ」や「煉瓦亭」、「天国」へと、グルメ街道まっしぐら。年端のいかぬ身で「祖母がこしらえる食べものや肉屋のコロッケなぞは見向きもしなくなってくる」生意気ぶりでした。

写真:若き日に資生堂パーラーで美食の歓びに目覚めた作家は、生涯この店を愛した

その頃、店の客や先輩達の使い走りにはチップがつきもので、その総額は給与の二、三倍にも。有り余る“軍資金”で、芝居見物は歌舞伎座、東劇など月に十回は下らず、映画も二、三十本。通い慣れたる三越で偶然見かけた十五代目羽左衛門におずおずとサインをねだったりもしています。

加えて長唄の稽古に深夜の読書と、寝る間も惜しんでの趣味三昧。それでも「決められた休日以外に店を休むようなことは、ほとんどなかった」と、放埓の中にも筋は通していたようです。

しかし、そこは生き馬の目を抜く兜町の住人。十六、七にもなると相場の味を覚え、やがて毎日のように鎧橋を渡って、行きつく先は……。そう、蛎殻町のとある仲買店で、勤め先には内緒で血眼になって自ら相場を張っていたのです。そして、ついには紅灯きらめく吉原へも。

 

 池波正太郎 兜町の青春 

儲けては大散財、遊ぶためにまた荒稼ぎと、怒涛の毎日でしたが、しょせんはまだ半人前。幼馴染と些細なことで喧嘩となり、埋め立て前の楓川にかかる兜橋の欄干上で殴り合いをしてザンブリ落水、といったヤンチャぶりも相変わらずでした。

写真:兜神社の脇にあった兜橋の欄干上で“果たし合い”をしたことも

が、やがて日中戦争のキナ臭さが兜町にも漂い始め、ついには真珠湾攻撃のニュース。株価の暴騰に沸くこの町を、少年は突如、離れる決心をします。相場の金は「金であって金ではない」。汗水たらして得たものでない後ろめたさが頭をもたげたのでしょうか。

やがて訪れるだろう出征の予感に、さっさと機械工へと転職し、いろいろあって戦後はご存じ文筆の道へ。

カネの旨さも怖さも知り尽くし、人の心の裏表を目の当たりにした兜町体験が、「鬼平」や「梅安」などの物語にどう投影しているか、空想を逞しくするのも一興でしょう。

 池波正太郎 兜町の青春 

引用元:

「青春忘れもの」中公文庫

「散歩のとき何か食べたくなって」新潮文庫

「江戸切絵図散歩」新潮文庫など

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中央区京橋図書館地域資料室