隅田の花火

竹久夢二・港屋絵草紙店

竹久夢二の本名、というか子供の頃は「茂次郎」といったのだとか。彼は優しい母や姉に囲まれて育ったのだそうで、その後の夢二の人生にも大きく影響したのだといいます。

彼の郷里・瀬戸内市にある生家記念館。その隣りに復元された夢二のアトリエに、等身大のパネルがあったので、撮らせていただきました。

 竹久夢二・港屋絵草紙店

夢二郷土美術館「少年山荘」にて2022/06

夢二はとてもモテたらしいです。


たまき・彦乃・お葉。

明治大正の頃に活躍した彼は今も人気で、全国に幾つもの美術館があるのですが、どの美術館に行っても、必ずこの「3人の女性」のことが紹介されます。それぞれ、夢二が活躍していた時代に出逢い、寄り添い、生活を共にされた方々です。

 

金沢湯涌夢二館が紹介する3人の女性 →こちら

 

美人画など、描かれた絵から想像してみる彼の人間像は、とても純潔なイメージがあります。ですが、そんな「夢二像」を持ちながら、何も知らずに夢二の美術館に乗り込んでみたりすると、いきなりこの3人のことが紹介されて、おそらく「おや?」っと思ってしまいます。

「夢二って、もしかして女たらしだったのか?」

ですが、もう少し踏み込んで夢二やこの3人の女性について調べてみたりすると、だんだんと「彼も普通の人間だったんだなぁ」と思える所が増えてきて、そうした人間像を分かった上で彼の作品を目の前にしてみると、不思議と味わい深い作品に感じられて来ます。

おそらくそれが、夢二の本当の魅力的なところであって、それ故に全国各地にある夢二の美術館は、わざわざこの3人の女性のことを紹介しているのだと思います。

 竹久夢二・港屋絵草紙店

竹久夢二伊香保記念館2022/10

夢二はとても旅が好きでした。そして、よく引越しをして日常を変え、様々な経験を得ようとしました。

新しい土地で、新たな風景の中に身を置いたり、人と出逢ったりすることは、彼の創作活動の原動力になったわけで、モデルを前にしないと描けなかったと言われている夢二にとって、常に新しい女性と向き合い、恋をし続けなければならなかったことは、ある意味、彼の宿命だったのかもしれません。

 

日本橋の呉服町・港屋絵草紙店

今の東京都中央区、呉服橋の交差点の近くには、かつて彼が出した「港屋絵草紙店」というお店の跡地があります(大正3(1914)年開店)。

 竹久夢二・港屋絵草紙店

東京駅に ほど近い呉服橋交差点

彼がこのお店を「港屋」と名付けた理由はよくわかりませんが、一度結婚して別れ、また一緒に暮らすようになった「たまき」さんの生活の支えのために出したお店と言われています。

たまきさんは、とても美人でした。

明治41(1908)年、22歳の夢二は年上のたまきさんに出逢ってから3ヶ月ほどでスピード結婚、夢二の一目惚れだったようです。そのあと彼女をモデルとした「夢二式美人」と呼ばれる美人画が生み出され、彼の絶頂の時代へと移っていきます。

一方で夫婦の共同生活の方は反りが合わず、2年余りで籍を外してしまいます。ですが小さな息子もいたので、たまきさんは生活を続けることもできず、夢二に寄り添ったり別れたりの繰り返し。籍が外されたままの「奇妙な夫婦生活」が途切れ途切れに続きました。

しかし束縛を嫌う夢二は基本的には別れたかったので、たまきさんに自活してもらうために出したお店がこの「港屋絵草紙店」だったのです。

 

港屋絵草紙店の記念碑(宵待草)の過去記事 →こちら

 

このお店は呉服橋から3、4軒東に入ったところの木造2階建ての建物で、店先には「港屋絵草紙店」と書かれた1.5mもある大きな提灯が下げられ、たまきさんが店番で座っていました。街路のプラタナスが店に彩りを添え、枝には小鳥籠をかけていたそうです。

夢二式美人の絵を見に港屋に行けば、そこにそのモデルが店番をしているわけですから、訪れた若い女性はおそらく皆驚いて、可愛い「夢二ブランド」の品をこぞって買ってしまうわけです。大正三美人のひとりに数えられる、あの柳原白蓮も東京に来るたびに通っていたのだとか。

 

奇妙な四角関係と港屋絵草紙店の絵

港屋にはこういった若い女性を中心とした夢二ファンが殺到し、店は繁盛したそうなのですが、夢二を慕う画学生や文人も集まり、小さな社交場のような場所としても機能していたようです。

この港屋で夢二は、のちに「夢二最愛の女性」と呼ばれることになる画家志望の女学生「笠井彦乃」に出逢います。

一方で、「東郷青児」という画家の卵の青年も毎日のように出入りし、次第に留守がちになった夢二の代作も行っていく傍ら、たまきさんと親密な仲になっていきます。

そして実は、彦乃さんと青児も以前には恋仲であったということらしく、「奇妙な四角関係」がここ港屋で生まれてしまったのです。

彦乃さんと出逢ったことで港屋に行くことが少なくなり、品も出さなくなったと言われる夢二。元々たまきさんとの別れを考えて出したお店ですから、夢二無しでは続くわけがありません。2年ほどでこのお店は終わりを迎えてしまいました。

その後夢二は、東京を去ってたまきさんとの別れを果たし、夢二の人生の中で一番幸福だったと言われる「彦乃時代」を歩んでいくことになります。「港屋」は、図らずも夢二にとっての「別れと出逢い」を演出した、その名前どおりの場所となってしまったのです。

 

さて、かつて彼が出した「港屋絵草紙店」の跡地には記念碑があるのですが(今跡地は工事中)、その碑にはめ込まれた絵を見てみます。

港屋開店の頃に描かれたと言われているこの絵(大正3(1914)年)。

 竹久夢二・港屋絵草紙店

左端の街路樹のプラタナスに手をかけている女性はたまきさん? とすると右端の港屋の提灯の前に立っているのは夢二になるでしょう。

とすると、真ん中の女性はもしかして彦乃さん? 

その後ろにいるのは、まさか青児なのか?

さらにその後ろに芸者っぽいのがいるけど、この女性は当時夢二が通っていた神楽坂のきく子さん?

なんて、変な知識が増えると、この絵も妙に変な絵に見えてきてしまうのです。実際にはそんなことは無いと思いますが。

 

ちなみにその後ろに見えるのは、シルエットからすると、この頃に新装された呉服橋でしょうか。東京駅の開業(大正3(1914)年12月)に合わせて、駅前の外堀に架かるこの橋や鍛冶橋もかけ直されたようです。橋灯のある巨大な親柱が特徴だった呉服橋。高欄などが美しい、とても芸術性の高い橋だったそうです。今はもう外堀は埋立てられており、橋を見ることはできません。

 

その奥、遠くに見える塔のある建物は、大正3年10月1日、港屋絵草紙店と同じ日に開店した日本橋三越の新館、白レンガの建物じゃないかな?

ロンドンにあるデパートを手本としたルネサンス様式の芸術性のある建築で、百貨店として初めてエスカレータが設置された建物でした。今もある日本橋三越のライオン像はこの時に置かれたものです。

 竹久夢二・港屋絵草紙店

こういった絵葉書も人気を博すようになっていた時代。夢二も多くの絵葉書作品を世に出しました。彼の才能を十分に発揮することのできる華やかな雰囲気が、彼の周りに溢れていたのです。

港屋絵草紙店に置かれたもの

この港屋には、女性が身にまとう浴衣、着物の半襟・帯や、千代紙・便箋・手ぬぐい・版画といった「日用品」が並べられましたが、これら売られていたものが夢二のデザインによるもの。画家である夢二自身がブランドデザイナーとして「日用品を芸術化」し、手仕事で作られた品々を自らの店で売った、という画期的なお店でした。

 竹久夢二・港屋絵草紙店

実際にこの港屋に置かれた商品の図案を見てみると、ありふれた植物や草花・実などを扱ったものが多く、題材としては特別「格調高い」というわけではありません。また、置かれた品は洋物ではなく、それまでの生活の中に溶け込んでいた和装のものでした。

日常にあるものの中に芸術を見い出し、図案化する。

日本のアール・ヌーヴォーなどと言われるように、当時としてはそれまでと異なるモダンさが夢二デザインの中にあったのだと思いますが、それは庶民に根付いたものの中にあるモダンさ、庶民が受け入れやすいモダンさだったということで、夢二ブランドの人気の秘密はそこにあったようです。

現代人がその100年以上前の夢二デザインを見ても、不思議と古さを感じず受け入れてしまうのは、そういうところなのかもしれません。

 

夢二は晩年、上州の榛名山を愛し、「夢二の最後の夢」の実現に向けて、榛名湖畔にアトリエを築きました。

地域に根ざした美術工芸品を創作することによって、産業や観光事業の振興を図る「榛名山産業美術研究所」を設立する夢です。

 竹久夢二・港屋絵草紙店

榛名湖畔に再現されているアトリエ2023/05

関東大震災を経たあとの昭和初期、手仕事によって作り出されていた工芸品の芸術性が、機械で作り出される大量生産品によって追い散らされ、「芸術性の無い時代」に向かっていくことを夢二は嘆いていたようなのです。

彼がかつて日本橋呉服町に開店した「港屋絵草紙店」。この店で売られていたものは、まさに手仕事で創られていた芸術でした。彼が榛名山でやりたかったことは、この「港屋絵草紙店」でやっていたことの続きだったのかもしれません。

残念ながら夢二は、この最後の夢を実現することなく、信州富士見町のサナトリウムで生涯を終えてしまいました。

 

呉服橋の交差点です(2023/7/22)。

 竹久夢二・港屋絵草紙店

港屋絵草紙店の跡地に立っているビルは、再開発のため、何のためらいも無く壊されていきます。東京ではもう、当たり前となっている風景です。

このような殺風景になりがちな都会の風景も、もしかしたら夢二がその当時に予見していた風景なのかもしれません。建物や街並みの芸術性も同じだと思うからです。

ですが今生きる現代人も、そういうことはよくわかっています。昨今、再開発される建物は、何かしらの工夫が凝らされることが多くなってきており、目を楽しませる建物が多くなってきている気がします。

八重洲や日本橋川の周辺は、今まさに再開発が目白押し。夢二の店が存在したかつての日本橋呉服町町域は、日本橋川沿いの水辺空間を利用した大規模な再開発によって生まれ変わる、ということです。

 

どのような街並みになるのか、時間はかかりそうですが期待してみることにしましょう。

 

 

 

<参考にした情報>
『中央区区内散歩~史跡と歴史を訪ねて~(第八集)』中央区企画部広報課/2010
『カラーブックス 239)竹久夢二』細野正信/保育社/1972
『新装版・夢二美術館4港屋絵草紙店』学習研究社/1988
『別冊週刊読売1976年1月号 特集・夢二 愛とあこがれ』 読売新聞社
『夢二日記1(明40年~大4年)』竹久夢二著/長田幹雄編 /筑摩書房/1987
『東京の橋~水辺の都市景観』伊東孝 鹿島出版会/1986
『中央エフエム・水の都の橋ものがたり』呉服橋の回

夢二郷土美術館(生家記念館・少年山荘・本館)展示2022/06
竹久夢二伊香保記念館 展示2022/10
竹久夢二美術館 展示2022/11
竹久夢二榛名湖畔アトリエ 展示2023/5
富士見町・高原のミュージアム 展示2023/7