クヌート

東京駅八重洲口 
「溜息」と「歯ぎしり」のアナザーストーリー

(グランルーフからの駅前風景)

東京ミッドタウン八重洲の開業で、一層、賑やかさが増した東京駅八重洲口周辺。近隣の再開発で更なる発展に拍車がかかりそうです。しかし、その陰には、丸の内側との格差に泣き、浮沈を繰り返して来た紆余曲折の歴史が……。

ルーツは皇居前?

ルーツは皇居前? 東京駅八重洲口 
「溜息」と「歯ぎしり」のアナザーストーリー

(八重洲通りにあるヤン・ヨーステンとリーフデ号のレリーフ)

「八重洲」の地名はオランダ人船乗りヤン・ヨーステンの名前に由来する、とは多くの文献が伝えるところです。1600年(慶長5)、オランダ船リーフデ号で九州に漂着した彼は、家康の信任を得て幕府の外交・貿易について進言。その功により拝領した屋敷の所在地が江戸城内濠沿いの「八代洲河岸」で、彼の呼び名「ヤヨス」から転じた当て字との説が専らです。

たしかに「江戸切絵図」を見ると、和田倉門から馬場先門にかけて「ヤヨスカシ」とか「八代洲河岸」などの地名が。それにしても中央区の地名のルーツが千代田区のお濠端だったとは、いささか飛躍が過ぎる気もします。

 東京駅八重洲口 
「溜息」と「歯ぎしり」のアナザーストーリー

(ルーツとされる日比谷通り沿いのオフィス群)

さまよえる地名

案の定、待っていたのは流転の運命。まず1872年(明治5)、内濠沿いの河岸から東に広がる一帯が八重洲町へと町名変更しました。八代洲から八重洲へと字面もマイナーチェンジしています。

次いで1884年(明治17)、現在の外堀通りにほぼ相当する旧江戸城外濠に八重洲橋が架橋。足元の町名とは関係なく、対岸の先にある地名を借用した命名で、現・東京駅八重洲中央口付近に当たります。

ところが明治も半ばになると、かつての大名屋敷変じて練兵場など陸軍用地となっていた八重洲町などの広大な土地を、政府が三菱の岩崎弥之助に売却。更に、東京駅の建設計画が浮上して地域開発のピッチが上がると、突如、八重洲橋に逆風が。

 東京駅八重洲口 
「溜息」と「歯ぎしり」のアナザーストーリー

(完成間もない旧東京駅=中央区立京橋図書館所蔵)

1914年(大正3)に完成した東京駅は、皇居に向かって南北に翼を広げたような豪奢な駅舎が人々の度肝を抜きましたが、一方、後背部分の外濠側は、多くの線路が並ぶ車両基地。ならば、目の前の濠に船着き場を造って物流を促すべし、との判断か、駅完成を前に小さな八重洲橋はお払い箱となったのです。

開かずの駅舎

「東洋一」との触れ込みで華々しく開業した東京駅でしたが、実は「首都の顔」らしからぬ“欠陥”がありました。出入り口が皇居側にしかなく、日本橋や京橋方面からの旅客が駅に入るには、わざわざ北の呉服橋か南の鍛冶橋まで大回りする必要があったのです。鉄道院の建物も外濠側にあったため、その通勤も不便極まりない状態でした。

 東京駅八重洲口 
「溜息」と「歯ぎしり」のアナザーストーリー

(駅に出入りする下町の人々が大回りした鍛冶橋付近の現在)

こんな理不尽さを、東京都が編纂・発行した「東京百年史」はこう、憤慨しています。「当時、三菱ヶ原と呼ばれていた丸の内界隈を、ビヂネス・センターに、成長させるべく、政府と三菱財閥とが意図したためという見方も成り立つであろう」

さらに「下町方面の…小市民の経済活動を無視しても、なおかつ、大資本と提携して…一挙に発展をさせようとする意図があったものとも見られるのである」。

お役所がまとめた本らしからぬ率直な物言いからは、当時の庶民の歯ぎしりが聞こえるようです。

ところで一旦は消滅した八重洲橋でしたが、関東大震災後の復興開発事業で1925年(大正14)に再建。東京駅の東側に、「八重洲」の文字が橋の名前として戻って来たのです。

 東京駅八重洲口 
「溜息」と「歯ぎしり」のアナザーストーリー

(幅が広くなった二代目八重洲橋=中央区立京橋図書館所蔵)

裏口エレジー

そして、東京駅完成から15年経った1929年(昭和4)、開かずの駅東側に念願の乗降口「八重洲口」が誕生しました。ただし利用できたのは近距離の電車区間の乗客のみ。

一方、この年には駅西側の八重洲町が町名変更で丸ノ内(後に丸の内)となり、ヤン・ヨーステンの“置き土産”は、皇居側から消え去りました。因みに当初、麹町区永楽町だった駅の住所も、丸ノ内に。

更に、ややこしい名前の変遷に輪をかけたのが、太平洋戦争。米軍による空襲で東京駅も被災し、戦後の復興事業による外濠の埋め立てで八重洲橋は再び姿を消します。

しかも1948年(昭和23)、遅ればせながら八重洲口の新駅舎が完成し、営業を開始したと思ったら、半年後には工事現場からの出火で全焼。橋といい駅舎といい、この時期、どうも短命の悲運が付いて回るようです。

東京南鉄道管理局がまとめた「東京駅々史」には、当時、東京駅駅長を務めたK氏の随想として、こんな話が紹介されています。

戦禍で無惨な姿を晒していた駅の外装工事の際、丸の内側は焼けた赤レンガに磨きをかけて面目を一新したが、裏側は予算不足のため朽ちたレンガにモルタルを塗ってしのぎ、「物置」さながらに。表さえよければ裏はどうでもよいのか、との詰問も受けた——。

 東京駅八重洲口 
「溜息」と「歯ぎしり」のアナザーストーリー

(現・八重洲口の基礎となった6階建ての鉄道会館ビル=中央区立京橋図書館所蔵)

焼け落ちた八重洲の駅舎については、長らくバラック建てでの営業が続いた後、日本橋、京橋地区の復興・発展に呼応して、駅舎の再建計画が進行。

当時の国鉄の財政難から民間資本の導入に踏み切り、1954年(昭和29)、6階建ての鉄道会館ビルとして新たな駅舎がお目見えします。(後に12階建てに増築。21世紀に入り、低層のデッキ=グランルーフや2棟の超高層ビルへと変貌)

同じ年、区画整理で中央区に八重洲の町名が誕生。東京駅を挟んでのチグハグ呼称にもようやく終止符が打たれました。やれやれ。

振り返れば、長く複雑な八重洲の歩みから浮かび上がるのは、「裏口」「後ろ側」「陰」の部分を軽んじる分断の発想。その悲哀を糧に、今後はフラットな関係で様々な地域と共存できたらいいのですが……。


◇引用元および主な参考資料

「東京百年史」(東京都)

「東京駅々史」(東京南鉄道管理局)

「八重洲のおはなし」(金井書店)

「東京駅『100年のナゾ』を歩く」(中央公論新社)

 

◇画像提供元

 中央区立京橋図書館地域資料室