『江戸名所図会』より見えてくる中央区
新大橋 三派(みつまた)編
「新大橋 両国橋より川下の方、浜町より深川六間堀へ架す。長さおよそ百八間あり。この橋は元禄六年癸酉[一六九三]、はじめてこれをかけたまふ。両国橋の旧名を大橋といふ。ゆゑに、その名によって、新大橋と号けらるることなり。」「新大橋 三派」『江戸名所図会』国立国会図書館デジタルコレクションより
現在の中洲付近
この写真は、『江戸名所図会』で描かれている中洲を2023年6月に撮影したものである。まず隅田川の対面の緑が濃いところが中央区中洲公園である。その緑のところに吸い込まれるように入っていくのが首都高速向島線の高架である。かつてその下には箱崎川が流れていました。写真左側を見るとドイツのケルンにあった吊り橋をモデルにした清洲橋(青色)、2階建て構造の隅田川大橋の高速部分(白色)、そしてその奥に永代橋(水色)、そしてその奥には中央大橋の支柱(白色)、そしてそしてその奥にリバーシティ21の高層ビル群が確認できます。もう一度、史実を整理してみることにする。
1693年 新大橋架橋(現在の位置よりやや下流)
1698年 永代橋架橋(現在の位置より150mほど上流)
1928年 清洲橋架橋
1979年 隅田川大橋架橋
1986年 リバーシティ21着工
1993年 中央大橋架橋
ここで大切なのは、新大橋と永代橋の架橋場所が現在の位置とは違うということです。絵図では新大橋と永代橋の二つの橋が描かれています。そこで今回は現在の新大橋より下流におりて写真を撮ってみました。江戸時代には清洲橋、隅田川大橋、中央大橋もありません。もちろんリバーシティ21も建設されていません。しかし永代橋は実在しています。それも現在より150m上流にと考えると絵図と写真の整合性が取れるのではないでしょうか。
三派(みつまた)
「三派 新大橋の下、分流ところをいう。浅草川と箱崎の間の流れとの分かれ流るるところなればなり(このところを別れの淵といふは、汐と水とのわかれ流るるとこうゆゑにいふ)。このところは、月の名所なり(ちなみにいふ、明和八年辛卯[一七七一]、中流をいん埋して人居とし、中洲と称せり。されど、洪水のとき、便りあしきとて、寛政元酉年[一七八九]に至り、また元のごとくの川の堀り立らる)。」「 三派」『江戸名所図会』国立国会図書館デジタルコレクションより
と、『江戸名所図会』には書かれていますがその後、明治19年に(1886)に再び埋め立てられ中洲町と呼ばれていました。中洲と言えば忘れてならないのが明治26年(1893)に開業した「真砂座」である。しかし交通の便が良くなく客の足が遠のき、大正6年(1917)には廃業となってしまった。中洲の花柳街としての繁栄も長くは続かなかった。そして、昭和46年(1971)に、浜町と箱崎町との境に流れていた箱崎川も埋め立てられ陸続きとなった。現在の中洲は閑静なマンション街となってます。
帆掛け船の支柱とリバーシティ21
最後に、絵図と写真を比較して感じたことがあり、そのことを書かせてもらい今回のブログを終了したいと思う。私には絵図の永代橋の後に描かれている帆掛け船の支柱が、写真の永代橋後のリバーシティ21の高層ビルを予見しているかのように感じてならなかった。