大山詣り
五雲亭貞秀『相模国大隅郡大山寺雨降神社真景』神奈川県立歴史博物館デジタルアーカイブ
江戸時代後期は庶民の間でちょっとした旅ブームが起こりました。江戸時代の旅は神社仏閣への参拝を中心としたもの。日本全国で講(同じ信仰をもつ集団)が作られ皆でお金を積み立てて講の代表あるいは講中(講の仲間)全員で伊勢参りや富士山への登拝をし、途中の観光名所や名物を楽しむ旅だったようです。しかし江戸からは伊勢への参詣や富士山登拝は日数も費用もかかります。しかも伊勢や富士に行くには箱根の関所を超えなくてはならず、通行手形の手続きも大変。しかし江戸から十八里(約72キロ)2~3泊で帰れる手ごろな距離にあり、関所も越えなくてよい大山が大人気に。
大山は神奈川県伊勢原市にあります。大山詣りが文化的価値を認められ日本遺産に登録されています。大山は常に山上に雨雲をたたえていたので「雨降山(あめふりやま)」転じて「阿夫利山(あふりやま)」と呼ばれ雨ごいの神としてあがめられていました。また、山頂にあった巨石はご神体「石尊大権現」となり山伏が修行をする山岳信仰の山でした。しかし戦力をもった山伏の集団を危険視した徳川家康の命令により山を下ろされました。その山伏が御師(おんし)として大山信仰を各地に布教してまわり講をつくらせ大山詣りに来た時は宿坊での宿泊や祈祷の世話や山の案内をしたことで関東各地に大山信仰が広まりました。最盛期の宝暦年間(9代家重、10代家治の頃)は年間20万人が参詣したそうです。
落語大山詣りと浮世絵をもとに当時の大山詣りをみてみましょう。
落語 大山詣り(あらすじ)
今年も長屋の男連中で大山詣りに出かけることになった。その中には酒癖が悪く、酒を飲むと暴れる熊さんもいた。先達さんは理由をつけて熊さんを留守番にしようと考えた。しかし、熊さんは楽しみにしていたのだからどうしても行きたいと言ってきかない。仕方がないので熊さんに限らず喧嘩をしたら頭を坊主にするという約束で出発した。
格好つける江戸っ子にとって髷は大事。坊主にされては大変と一行は不愉快なことがあっても我慢。無事にお山を済ませた。
神奈川の宿で一泊して明日は江戸。やれやれということでお酒が入る。飲んだ熊さんが狭い風呂の横入りとオナラで揉めて大暴れ。その後の芸者をあげての宴会ですっかり酔いつぶれて眠ってしまった熊さん。熊さんに殴られた人たちはおさまりがつかず先達さんや他の仲間には内緒で眠っている熊さんを丸坊主に。
朝になってもぐっすり眠っていて起きない熊さん。熊さんを坊主にした人たちは熊さんがいないことがばれないようにした。一行は熊さんが寝ていることに気づかずに宿を出発。
その後宿の人に起こされた熊さん。昨夜暴れたことは全く覚えていない。坊主にされたうえ置いてきぼりにされたことにカンカン。急いで籠をよび、のんびり歩いている一行を追い越して一気に江戸の長屋に帰り、お山に行った連中のおかみさんを全員呼び集めた。
てぬぐいで坊主を隠した熊さんが言うには「お山をおりて物見遊山で金沢八景に寄った。ついでだから船で横須賀見物もしようということになった。しかし船頭が今日は天気が変わるからやめた方がいいという。しかしそんなことで引き下がる連中ではない。そこで船頭はしぶしぶ船を出した。案の定天気は急変。いきなり大波が来て船は転覆。全員海に沈んでしまい、熊さんだけ浜に打ち上げられた。自分も海に飛び込んでしまおうと思ったが、江戸に知らせに帰らなくてはと思い恥をしのんで泣く泣く帰ってきた。」しかしほら吹きの熊さんのいうことだから信用されない。そこで頭の手ぬぐいを取り坊主頭を披露し、菩提を弔うために坊主になったと言った。見栄っ張りの熊さんが坊主にするとは本当の事なんだと、先達さんのおかみさんが泣き崩れるのと同時に全員が大合唱で泣き始めた。井戸に飛び込んで死のうとする人まで現れた。死ぬくらいなら頭を丸めて菩提を弔おうという熊さんの提案におかみさん全員坊主になり百万遍を唱え始めた。
そうとは知らず夕暮れに一行はお山から帰ってきた。自分たちのおかみさんが熊さんに騙されて坊主になって念仏を唱えているのに腹を立てた。
しかし先達さんは「お山も無事に済み、みな怪我無く(毛が無く)めでたい。」
※色マーカーがついている部分は以下の章で同じ色のところに解説があります。
大山道とは?
大山への参詣者が各地から通る道は大山道と呼ばれました。各地から大山に道が通じているのがわかります。①青山道り大山道 ②府中通り大山道 ③八王子通り大山道 ④柏尾通り大山道 ⑤田村通り大山道 ⑥羽根尾通り大山道 ⑦六本松通り大山道 ⑧蓑毛通り大山道 道の途中には石の道標(道しるべ)が建てられました。現在でも各地に残っています。
落語では帰りの道しかわかりませんが帰りはおそらく④か⑤を通り赤い線で示した東海道の神奈川宿で宿泊し帰ったのではないかと思われます。
落語の中で熊さんが立ち寄ったと嘘をついた金沢八景は地図で青い点で示したところです。金沢八景は風光明媚で大山詣りの帰り道の観光地として人気でした。
どんな人達が大山詣りにでかけたの?
大山詣りは講を作りその構成員の代表者が順番に、あるいは全員(ただし男性のみ)で出かけるものでした。講とは同じ信仰を共にする集団ですが、修行や戒律などの厳しい制限があるものではなく、大山に行くために費用の積み立てをするような集団でした。
落語の中では長屋の男連中つまり町内会の講での参加ですが、同職の職人の講での参詣が多く見られたのも大山講の特徴でした。火消し、鳶、大工、左官、瓦職人、刀鍛冶、魚河岸の人といった粋を大切にした職業の人たちです。「雨降山」の名前や山頂にある「石尊大権現」にちなんで水や石に関係ある職業の人が験(げん)をかついだり、大工や鳶は高いところで仕事をするので遠くに見える大山に特別な信仰心もあったようです。
私が思うに次の章に出てくる大山詣りに欠かせない大きな木太刀や梵天の威勢がよく粋でいなせな感じが江戸の職人たちの心をとらえていたというのもあるのではないでしょうか。
水垢離と納めの大太刀
歌川貞房『東都両国夕涼之図』国立国会図書館NDLイメージバンク
江戸からの大山詣りは旧暦6月27日から7月17日の夏山期間中に集中していました。この期間のみ頂上の石尊社(阿夫利神社本社)への登拝が許されていたからです。
大山詣りに行く人たちはまず両国橋の東詰め、現在の墨田区側回向院の近くの大川(隅田川)に作られた水垢離場で1週間ほどかけて身を清めました。ここは普段から病気を治す祈願をしたり、招福を願う人の垢離場だったため川に下りられるように石段が作られ、川底は石畳だったそうです。
この浮世絵は両国の花火の賑わいを描いたものです。橋の上や川の上の船に大勢の人がごった返す中に大山詣りの出発前の水垢離をしている人たちがいます。見つけられますか?
左端の上の方です。拡大して見ましょう。
歌川貞房『東都両国夕涼之図』国立国会図書館NDLイメージバンク(拡大図)
絵の左端上から三分の一くらいのところに「大山石尊」と書かれた提灯と水に入る数人の男性。一人は長い木の太刀(納めの大太刀)を持っています。これが水垢離をする人たちです。「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えながら身を清めたそうです。
水垢離と梵天
歌川広重『名所江戸百景 浅草川大川端宮戸川』国立国会図書館デジタルコレクション
大山詣りに行く前の水垢離が終わった後の絵です。この絵で彼らが船に立てている大きいものは梵天といいます。たくさんの御幣(ごへい)を束にして棒の先に刺したものです。前の水垢離の絵にあった大きな木太刀(納めの大太刀)は書かれていません。納めの大太刀を掲げて水垢離をする場合と梵天を掲げて水垢離をする場合があったようです。梵天と納めの大太刀の両方をもって水垢離をするケースがあったかどうかは文献や浮世絵が見つからなかったので不明です。梵天をもって水に入り垢離を取った後で町内に戻り梵天に刺してある御幣を抜いて1軒1軒に配って歩きました。大山登拝の前支度という以上に、邪霊、害虫、災いを払って夏を迎える行事として欠かせないものだったそうです。
梵天を配ったら納めの大太刀を持って大山詣りに出発です。
納めの大太刀
歌川広重『東海道五十三次細見絵図 程ケ谷』国立国会図書館デジタルコレクション
隅田川の水垢離の浮世絵では納めの大太刀がよく見えないので大きく描かれているものを見てみましょう。上の浮世絵で右奥の人物が担いでいるのが納めの大太刀です。
納めの大太刀の風習は鎌倉時代に源頼朝が平家討伐の時に太刀を奉納して勝ったことにあやかって始まった。または石尊社(後に神仏分離令で阿夫利神社に名称をもどし現在も阿夫利神社)を敬い1年に一度太刀を奉納し武運長久を祈ったことに始まったともいわれます。いずれにせよ頼朝にあやかりたい庶民の招福除災の願望と結びつき納めの大太刀の信仰が生まれました。
太刀には当初は約30センチ程でしたが大きいほど粋であるとされ3メートル(7メートルという説もあり)の長さのものもあったそうです。太刀には「奉納大山石尊大権現大天狗請願成就」「大願成就、誰々以下何人」「大山講中誰々以下何々」などと墨書きされています。
いざ、お山へ
葛飾北斎『相州大山ろうべんの滝』神奈川県立歴史博物館デジタルアーカイブ
落語にでてきた先達さんとは旅慣れていて大山詣りのガイド役をする人です。山伏が職替えせざるを得なくなり御師(大山信仰の布教をし大山詣りのお世話をする人)になったお話をブログの冒頭でしましたが落語の先達さんは長屋におかみさんもいて長屋の仲間たちとご近所で暮らしているようなので御師ではないと思われます。
先達さんに先導され無事に大山の麓についた講中は御師の家で草鞋を脱ぎお祓いを受けて旅の汚れを落としました。講は各々の御師と懇意になり御師の家に宿泊したり護摩、祈祷の斡旋をしてもらったりお山の先導もしてもらったりしました。現在でも大山には参道沿いに先導師〇〇と書かれた看板を掲げたかつては御師と呼ばれた人が営む宿坊があります。
大川(隅田川)の垢離場で都市の穢れを払ってきた一行ですが大山に上る前にもう一度山麓の滝で垢離をとり罪を懺悔しなければ山頂の石尊社へいけませんでした。罪障の身のまま登ると山中の天狗に体を八つ裂きにされると信じられていたからです。上の浮世絵はその滝での水垢離の場面です。良弁の滝といいます。他に3つの滝がありいずれかで垢離を取りました。
無事に垢離をとった一行は山頂の石尊大権現参拝をし、納めの木太刀を神前に奉納しました。そして帰りには他の講中が納めた木太刀を持ち帰り招福除災のお守りにしたということです。
お詣り後のお楽しみ行楽へ
歌川広重『東海道五拾次 神奈川台之景』国立国会図書館デジタルコレクション
落語の長屋の一行が帰りに宿泊したのが神奈川宿。急な坂道ですね。現在も同じような急な坂道です。浮世絵で海の部分は現在は横浜駅西口があります。『江戸名所図会』には「この地はいづれも海岸に臨みて海亭をまうけ、往来の人の足を止む。この海辺を袖ヶ浦と名づく」とあります。当時は海に面して茶屋や宿が並び、旅人たちは休憩しながら景色を楽しんだのでしょうね。
煙管亭喜荘著ほか『金川砂子』国立国会図書館デジタルコレクション
神奈川宿のなかでも特に大きい宿が「さくらや」でした。店の左側に札のようなものがたくさん掲げられているのが見えます。これは「まねき看板」というものです。大山講が宿泊するたびに講の名前が掲げられました。
歌川広重『洲崎晴嵐』国立国会図書館デジタルコレクション
大山帰りの行楽地として人気があったのは江の島、鎌倉、金沢八景、箱根でした。今でも人気の観光地ですね。これらの地域では観光客目当てのガイドブックや絵図が盛んに出版されました。金沢八景の八景とは中国の山水画の題材になった風光明媚な場所、瀟湘八景(しょうしょうはっけい)にちなんで風光明媚な金沢の場所を八か所指定したことから始まります。
上の浮世絵はその場所の一つ「洲崎晴嵐(すさきのせいらん)」です。洲崎は製塩業が盛んな場所でした。画面中央浜に点々見える小さい小屋は塩焼き小屋です。嵐が去ったあとの洲崎の浜の穏やかな光景です。落語で熊さんが嵐に船が転覆したと嘘をつく場面ちなんてで嵐の後の八景の一つを選んでみました。
お土産
歌川広重『名所江戸百景 京橋竹がし」国立国会図書館デジタルコレクション
京橋川の左側の川岸に沿って竹屋が軒を連ねていて竹河岸と呼ばれていました。立てかけてある竹が巨大な壁のようです。京橋川にかかる擬宝珠のついた京橋をわたる飾りのついた棒のようなものを担いだ一行が見えるます。これは大山詣りから帰ってきた一行です。なぜ大山帰りとわかるかというと担いでいる飾りのついた棒がお土産の麦藁細工の纏と言われているからです。東海道沿いの大森(現在の東京都大田区)の名物で大山詣りのお土産として人気だったそうです。しかし文献によってはお土産の梵天と書いてあるものもあります。梵天と書かれている場合はどこで手に入れたものか書かれていないので不明です。果たして纏なのか梵天なのか。
歌川芳虎『書画五拾三駅 相模藤沢山帰定憩』国立国会図書館デジタルコレクション
上の飾りのついた棒が大森の麦藁細工の纏です。どうでしょうか?色合いが京橋竹がしの浮世絵で持っているものと似ているように見えます。
また現在でも家を建てる際の棟上げの時神様の依り代にする梵天だと丸い扇に紅白の紙垂をつけたものでのでサイズも見た目も近いように思えます。梵天だといわれるとそう見えなくはありません。大山で授与された神様の依り代の梵天を持ち帰って家に飾るというのも全く不自然ではありません。
他に大山詣りのお土産として江戸中期から作られていたのが「大山こま」です。豊かな森林をもつ大山には木地師、木挽師といわれる木工製品を作る人がいました。木製のお盆や杓子類、玩具などを製造していました。中でも大山こまはよく回ることから「人生がうまくまわる」「お金のまわりがよくなる」として縁起物のお土産として人気でした。落語の長屋のご一行もこまを買ったかもしれませんね。
『大山こま』国立国会図書館デジタルコレクション
おわりに
今回は落語に沿って浮世絵を見ながら江戸からの大山詣りについてお話ししました。しかし出発地や講によって風習が若干違ったようです。例えば大川(隅田川)の水垢離のところでお話しした紙垂を付けた梵天ですが江戸からの出発の講では水垢離のあと町内に配ったようですが大山の地元伊勢原ではまた違う風習があったようです。それがわかる記事がこちらです。江戸では配ってまわった紙垂は伊勢原では各家庭に祀られていたものを回収し、それを梵天に刺し、それをもって大山に登り奉納したということです。
まだまだ調べ足りていないだけで江戸でも各講によって違う風習もあったかもしれません。大山詣りはまだまだ奥が深そうです。
【参考文献】
『江戸庶民の信仰と行楽』 池上真由美 同成社
『江戸府内絵本風俗往来』 菊池貴一郎 青蛙房
『広重名所江戸百景』 ヘンリー・スミス 岩波書店
『江戸名所図会』巻之二 ちくま学芸文庫
『大山』小田急電鉄発行 観光案内用無料小冊子
落語『大山詣り』古今亭志ん朝 YouTube