■中央区歴史逍遥<3> 賀茂真淵没後250年① ~浜町の「県居」はどこ、どんなところ~
江戸中期の国学者・歌人である賀茂真淵(かものまぶち)は元禄10年(1697)、遠江国浜松庄伊場村で生まれた。荷田春満に学び、古代歌詞の復活に没頭し、万葉集や古今和歌集などに関する研究著作を書き残す。明和6年(1769)、73歳で生涯を閉じた。
今次、あたかも新元号「令和」が万葉集に典拠し、賀茂真淵没後250年にあたる。
久松町交差点近くに「賀茂真淵県居(あがたい)の跡」説明板がある(写真)。「県居」は真淵が隠居後に建てた庵で古ぶりの佇まいから名付けられたという。その旧跡場所は、説明板には「日本橋浜町1ノ4付近。・・・この地点の北東約100mのあたり」とある。残念ながら説明板が設置された場所ではないことが分かる。
「県居」の旧跡を、古地図から探してみよう
京橋図書館発行『郷土館だより』第17号(「切絵図考証4」、安藤菊二著、昭和52年6月)には、県居旧跡について文献を調べた結果が載っている。要約すると、「宝暦の頃、山伏井戸の細田主水の地を借り、文化期から明治期には秋山邸となった。明治の道路改正後は日本橋区浜町一丁目7・8・9番地辺りである」という。
これに順って沿革をたどってみよう。
【図1】明和8年(1771)頃 旗本‣細田邸地の約100坪を借りた。細田民之丞の名がある(丸印)。西隣は福王甚左衛門。
【図2】安政期(1854-)頃 文化期から秋山邸(丸印)になった。
【図3】明治9年(1876)頃 明治の道路改正で、浜町一丁目7・8・9番地辺りになった。
この当時、7番地は板垣退助邸で約千坪といわれる。高砂橋北東の学校は久松小学校。その後、区画整理があり、県居旧跡の現在地はどこか特定できないが、現説明板の設置場所から清洲橋通りを挟んだ反対側(北東)辺りと思われる。
佐佐木信綱氏が著した、県居の月見会
国文学者・歌人で文化勲章受章者の佐佐木信綱氏(1872-1963)が著した「県居の九月十三夜」(大正5年、『中央公論』掲載)に、県居の様子や月見宴の情景が描かれている。
氏は「近代の歌人で、最も景慕にたえざるは賀茂真淵なり」と述べている。この文章から一部を摘録してみたい。
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明和元年(1764)9月13日の夜、空は晴れ渡り、清くさやかな月の光は江戸を照らした。68歳の賀茂真淵は旧居を引き移して改築工事中であったが落成を告げられ、門人を招いて月見の宴を催した。
家は山伏井戸から東にあたる中道にあり、福王甚左衛門の東隣に位し、細田主水時行という御扈従〔こしょう=供奉、随行〕組、500石拝領旗本の地で、100坪余りを借りた。母屋は2階建てで土蔵もある。今宵の宴は古ぶりの隠居家で開く。屋根は板葺き、入口は西で板敷き。上がると四方は庇の間。数十坪の庭には穴倉を設けた。その東方は野辺や畑のような造りで、万葉集の中の産物を集めていた。蟋蟀や鈴虫が頻りに鳴いている。
宴に列なった人々は――、26歳の村田春郷は真淵が江戸に来るや、まず世話になった春道の子。その弟、春海はまだ二十歳にもならぬ。老友加藤枝直の子で千蔭は早39歳になった。伊能魚彦と河津美樹は42と44である。先に来て先に帰った42歳の平賀源内。建部綾足43歳は才子。山岡浚明53歳は学問も深い。加藤枝直73歳は来なかったが重んずべき学者。ほかに女弟子が幾人たち。
月はいよいよ冴えた。彼(真淵)は杯をとって静かに家を見めぐらした。古を慕う心から県居を作ろうとした苦心が胸に浮かんだ。(以下略)
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文章には以上のほかに真淵の生涯や偉業などについて書かれている。この著作は、佐佐木氏が各所に取材し、史料を探して創作したものと付言あるが、往時を彷彿するものとして興味深い。(@AM)