隅田の花火

大震災・九條武子が辿った道

中央区の築地本願寺にある九條武子さんの歌碑です(2017撮影)。この女性のことを詳しくご存知の方は、あまりいらっしゃらないのかもしれません。

明治時代の半ば、西本願寺の法主・大谷光尊の次女として生まれた彼女。一般的に「大正の三美人のひとり」「大正時代の有名な歌人」「社会慈善事業に尽力したお嬢様」などと紹介される方で、世間からとても愛された、大正から昭和の初期のアイドル的な女性でした。

 大震災・九條武子が辿った道

大正9(1920)年、武子さんの歌集『金鈴』が出ると大きな反響となり、武子さんの歌人としての名が広く知れ渡ります。その頃、長く海外にいた夫が帰ってきて、今の中央区の築地本願寺の近くで新たな生活が始まりました。

築地に来てから、彼女の人生に大きな転機が訪れます。大正12(1923)年の関東大震災で彼女自身が被災してしまったのです。なんとか逃げのびて一命を取りとめたのですが、そのあと彼女の人生感が変わり、震災負傷者・震災孤児の救援慈善活動など、さまざまな福祉活動を積極的に行い続けました。

大きな悲しみに暮れていたところ、女神のような武子さんが目の前に現れる。慰問を受けた人々は大きな勇気を与えられ、生きていく上での心の支えとなりました。

 

この関東大震災が起きてから今年はちょうど100年。

被災してから数週間後に書かれた武子さんの長い手紙が残っているのですが、それが今、震災時の貴重な史料になっていますので、この節目の機会に、その内容を一部ご紹介してみようかと思います。

 

手紙に書かれた文章の始めの概略は、だいたい次のような流れです。

9月1日は嵐のあとだった。

11時半過ぎに帰宅してソファで本を読んでいたらユラユラと来た。

地震は間断なく揺りどおし。自らの住まいは5分ほどであばら屋のようになってしまったが、築地本願寺の本堂はまだ大丈夫だった。

本所深川での悲報が伝えられた。

火災も見えていたが、築地側が風上だったので油断していた。

そのうち日が暮れかかり、夕方になると風向きが変わった。

 

この日はちょうど台風が能登半島から三陸へ抜けるところで、前日は雨、地震発生当時は台風に向かう南風、夕方になると台風が抜けて吹き返しの強い北風が吹いたようなのです。

このタイミングから、武子さんは火の海に追い詰められて、火から逃げのびる、長い長い夜が始まります。

以下、築地本願寺から、青山方面にある兄の光明の家まで逃げのびる辺りまでの文章について、原文にてご紹介致します。

 


日も暮れかかり、人の顔もうすうすの夕方になって、俄然風の向がかはり、今度は風下になり、一方は八丁堀から、一方は銀座から、どんどん焼き進んでくる有様で、もうかうしてはをられないと、表の者の注意にせき立てられ、着物を着かへましたのと、小さな手かばんに、その晩の野宿の用意にと、毛布や大ぶろしき二三枚つっこみ、少しばかり、手近にあった貴金属のたぐひをほりこみました。ただ仏様を身にお供して。もうその時は、すべての物になんの未練もなく、家を見捨て、多年大切にしてゐたなつかしいいろいろの物に別れて、一度本堂前に集まり、役宅の家族の妻や子供達と、十五六人づれで、有栖川宮様銅像の処、海軍参考館前へと逃げ出しましたが、もう火は歌舞伎座のあたりまで進み、さかんに火の粉が飛び散り、非常な風で、顔には、砂だかほこりだか、いたいものがあたりますの。避難者はどんどんふえる一方で、もうこの道を芝方面へ出るより、道はなくなってしまいひました。おされおされて進んでゆきますうち、海軍々楽隊の門の処で、好意ある人と見え、門を開いて、私ども一行を入れてくれました。そこで精養軒と農商務省の火を見て、もう助からないものと、今度は浜離宮へとまた逃げましたが、これで、芝方面に火があったら、もう死ななければならないものと、覚悟しました。本願寺にもさうかうしてをった間に、火がついたらしうて、一しきり又、そのあたりの炎の物すごさ、とてもとても御話は出来ません。丁度浜離宮の御門前で、偶然、光明が、人力車を用意して様子を見に来てくれたのに会ひまして、一先離宮の外苑(開放されてありました)に入り、光明は築地の情況を見にと再び出かけましたが、とても熱くて寄りつけないし、もう火がまはってゐるらしいから、一刻も早く、この風の間に、青山まで逃げようといふことになり、君の老人と、小さな荷物を車につみまして、先にやり、私どもは徒歩にて、あちこちの焼ける爆発の音を後にして、淋しいともなんともいはれぬ心もちで、芝公園をさしてあるいてまゐりました。ときどきうしろを見ますと、一面の火の海で御座います。なんといふおそろしいことになったのでせうと思いつつ、十一時頃、高樹町の宅に着きましたが、ここは殆ど別世界のように静かで、風もなく、月が秋らしう静かに澄んでをりました。うまれかはった様な心持が致しました。翌日・・・

 

隅田川の対岸、勝どきの方から見た築地・銀座方面です(2021/5/6)。

 大震災・九條武子が辿った道

築地は今、市場の街として知られていますが、武子さんがいた頃は、市場ではなく海軍の施設がありました。また、今の場外市場の辺りは小さな寺が多く集まっていて、築地の周りの晴海通り・新大橋通りといった大きな幹線道路はありませんでした。もちろん、その頃は勝鬨橋も架かっていません。

北の銀座から、そして東の八丁堀からは火の嵐が迫り、背後は隅田川。武子一行は西の浜離宮の方向に逃げるしかありませんでした。

 大震災・九條武子が辿った道

有栖川宮様の銅像の処、海軍参考館前へ逃げる
 →火は歌舞伎座のあたりまで
⇩⇩⇩
海軍々楽隊の門に入る
 →精養軒と農商務省の火を見る
⇩⇩⇩
浜離宮へとまた逃げる
 →本願寺に火がついた
⇩⇩⇩
芝公園を目指す
 →振り返ると一面火の海

 

かつては水辺の街だった中央区。この頃はまだ水路が多く残っていました。橋を渡らなければ逃げることができませんから、架かる橋々には逃げ惑う人々が殺到したことと思われます。

 大震災・九條武子が辿った道

海軍施設に通じる北門橋

 

そのあと、以下のように続きます。

本堂は、九時四十分に棟がおちました由。私どもの逃げた芝公園付近も、やはり其のあとで焼けましたり、離宮の橋も、御門も、避難の船も、皆やけて、たうとう一萬人余の避難者は、内苑に入れていただいて、やうやう、被服廠あとのやうな、むごたらしいことにはならずにすみました由。・・・

 

こういったお話は、あまり好きで無い方もいらっしゃるかもしれません。

ですが昨今、天災も多く発生、特に日本は、地震、台風、洪水、津波といった危険に常にさらされています。天災はいつ起こるかわからない、ということは誰もがわかっていることと思いますが、実際にその場面に遭遇した時のことを考え、普段からの準備や心構えを、改めて考え直した方が良いのかもしれません。

 


かの一日の、一大天災と同時に、甦生した私は、生まれたままの裸同様になってしまいました。もうこれからは、心を入れかへて、十分に質素にして着なければならないと、今度のことは、自分に良い教訓を与へられたものと思うてをります。

最後に、武子さんは歌人ですから、彼女の震災に関する歌を載せておきます。

 大震災・九條武子が辿った道

九條武子『無憂華』より

 

 

<参考にした情報>
『九條武子夫人書簡集』佐々木信綱/実業之日本社/1929
『無憂華』九條武子/実業之日本社/1927