New River

新川に架かっていた4つの橋 ~新川の痕跡を辿って~

「新川」を起点に特派員活動をしている「New River」です。

今回のブログは「新川に架かっていた4つの橋 ~新川の痕跡を辿って~」と題し、かつて霊巌島といわれていた新川(現在の新川1丁目・2丁目)に実際に流れていた川、文字通りその「新川」の痕跡を辿ってみたいと思います。

7月のブログ(新川に架かる9つの橋(シリーズ1回目))では、「(前略)新川には、当時、3つの橋(一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋)が架かっていて、今でもその痕跡が残っています」と申しましたが、今回のブログは、昭和23~24年(1948~1949年)の新川の埋め立てによって姿を消した4つの橋(一の橋、新川橋、東新川橋、三の橋)を取り上げたいと思います。

というわけで、「新川に架かる9つの橋」のシリーズはいったんお休みとなります。

※ 上の写真左上は新川公園の「新川之跡」の碑(新川1丁目31番)、左下は新川の遺構(新川1丁目15番)、右は江戸・延宝年間(1673~1681年)の新川を描いた古地図の右半分(提供:中央区立京橋図書館)。

はじめに

話は昨年の秋、10月13日のことになります。亀島橋(前回ブログ参照)近くの中華料理店で昼食を摂り、少し遠回りをして会社へ戻ろうと思い、散歩をしていたら、ビルの工事現場があったので、中を覗いてみると、ビルの地下にあるはずがない古そうな石垣が目に飛び込んできました。その瞬間、これはもしかしたら?と思って、古地図アプリで調べてみたら、私はまさに「新川」の中に立っていました。

どうしたらよいだろうか?きっと今この場所で新川の遺構を見ることができると思う人はまずいないはず。工事が進めばこの遺構は埋没してしまう。多くの人に新川の歴史を目撃してほしい!と思って、私は、地域のニュースを配信している地元メディアに連絡することにしました。その結果、同社のY編集長が直々に現地を訪れ、立派な新川遺構発見の記事を作ってくださり、配信されることになったのです。

こうして、私が勤めている新川でその歴史を目撃できたことにより、私の新川に対する想い、探求心はますます膨らみ、このことが「中央区観光検定」受検の大きなきっかけとなりました。

今回のブログはそんな私の原点ともいえる新川の跡を辿る内容となります。

新川の歴史

新川は、万治3年(1660年)に河村瑞賢(江戸前期の豪商。海運・治水の功労者。伊勢国度会郡東宮村生まれ)が開削したといわれ、その目的は、諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの利便性を図るためとされています。そして、この開削により、上方から下り酒と呼ばれる灘や伊丹のお酒が樽廻船により次々と運ばれ、この一帯はお酒の荷揚げ場となり、多くの酒問屋が集まるようになりました。

その新川には、江戸・寛文年間(1661~1673年)に既に4つの橋が架けられていました。しかし、いずれも橋名はなく、上流から一ノ橋、二ノ橋 … と呼ばれていました。その後、1つの橋がなくなり、3つになりましたが、明治に入ってからも以前と同様に一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋と呼ばれていました。

そして、大正12年(1923年)には、関東大震災でこれらの橋も被害を受け、一ノ橋と三ノ橋は震災復興橋梁として元の場所に架け替えられましたが、二ノ橋についてはその名は見当たらず、近くに新たに新川橋が架けられ、さらにその下流に東新川橋が新設されました。

しかし、太平洋戦争により、再び新川一帯も大きな被害を受け、昭和23~24年(1948~1949年)に戦災焦土によって新川は埋め立てられ、4つの橋はすべて姿を消してしまいました。

このような歴史がある新川界隈には、酒問屋の守護神である新川大神宮や下り酒の流れを汲む酒問屋、醸造関係の会社等が今も残っています。

> 新川の歴史については、4月のブログ(酒問屋のまち「新川」について ~加島屋社長に聞く~)もご覧ください。

新川の痕跡

では、早速、新川の痕跡を辿ってみることにしましょう。

まずは、下の【新川全体図】をご覧ください。

この地図は、国土地理院ウェブサイト「地理院地図 / GSI Maps|国土地理院」を使用し、新川1丁目を西から東へと流れていた新川(青色の矢印)に架かっていた4つの橋を示したものです。

これから、かつて流れていた新川の流路に沿って、各橋の痕跡を見ていきたいと思います。

なお、ここからの橋名は、本ブログ作成にあたり大いに参考にさせていただいた「中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋梁・橋詰広場 ー中央区近代橋梁調査ー」(中央区教育委員会、平成10年3月2日発行)に記載の表記とします。

【新川全体図】

 新川に架かっていた4つの橋 ~新川の痕跡を辿って~

※ 地図上のアルファベット(A~H)は、このブログに掲載した写真の撮影地点(矢印は撮影方向)となります。

 

<亀島川分岐点>

亀島川から分岐する新川の最上流部は、下の上側の写真(【新川全体図】のA地点から撮影)で丸く印を付けたところ(新川1丁目3番)になります。ここから新川は隅田川との合流点へ向け東流して(写真では左へ流れて)いました。

下側の写真(提供:中央区立京橋図書館)は、新川が埋め立てられる前、昭和23年(1948年)に撮影されたもので、新川に架かっていた一の橋から亀島川方面を見たものです。正面の建物は、上側の写真にも写っている、昭和2年(1927年)竣工の「第2井上ビル」です。

> 新川の流れが始まる最上流部(亀島川との分岐点)へは、東京メトロ日比谷線・東西線の茅場町駅3番出口から、永代通りを永代橋方向へ歩き、亀島川に架かる霊岸橋を渡ったところにある路地を右に入ると3分ほどで到着します。

 新川に架かっていた4つの橋 ~新川の痕跡を辿って~

 

<一の橋>

最初の橋は一の橋です。

一の橋は、大正15年(1926年)7月3日の竣工で、形式は鋼桁橋、橋長10.3m、幅員18.0mの震災復興橋梁です(竣工は創架の時期ではなく、最後に架けられた(架け替えられた)橋のものとし、以下同様とします。)。

震災復興事業により、橋の新設とともに橋詰広場が右岸上流側を除く3か所に設置されましたが、現在は全く残っていません。

では、写真で見ていきたいと思います。

下の写真(【新川全体図】のB地点から撮影)は、ほぼ南北に架かっていた一の橋があった道路に対し、東西に交差する道路の西側から東側を撮影したもので、新川はまさにこの下を流れていました。

道路は交差点に向かって上り坂で、交差点を過ぎると下り坂になっていて、かつてそこに橋があり、河川があったことを物語っている地形です(橋と川を埋め立てると、通常、橋があった場所が最も高くなり、その周囲は低くなります。)。

と言っても、なかなか平面の写真では、この高低差はわかりにくいと思いますので、先ほどの地理院地図にあるツールを使って、断面図を作ってみました。

下がその断面図で、一の橋があった道路に対し、東西に交差する道路を垂直に切り取って、横から(南から北を)見た図となります。橋があった場所(断面図で+となっているところで、標高3.49m)が最も高くなっているのがおわかりだと思います。

 新川に架かっていた4つの橋 ~新川の痕跡を辿って~

 

次の写真(【新川全体図】のC地点から撮影)は、一の橋があった場所を南北に走る道路です。この道路も橋があった場所を境に南北にそれぞれ緩やかに低くなっています。

やはり写真ではわかりにくいと思いますので、同様に地理院地図のツールを使って、断面図を作ってみました。

この断面図は、写真の向こう側から手前側へ南北に走る道路(北へ進むと箱崎湊橋通りに接続)を垂直に切り取って、横から(東から西を)見た図となります。やはり橋があった場所(断面図で+となっているところで、標高3.49m)が最も高くなっているのがおわかりだと思います。

なお、写真の左右に少し見えている道路は、先ほど見た、この一の橋があった道路に対し、東西に交差する道路で、交差点を境にそれぞれ下り坂になっています。

 新川に架かっていた4つの橋 ~新川の痕跡を辿って~

 

<新川橋>

次の橋は新川橋です。

実は当初は二の橋の予定で準備を進めていましたが、文献を調べていくうちに、前述のとおり、二の橋は関東大震災で被害を受け、その後、復興されず、近くに新たに新川橋として架橋されたことを知ったことから、新川橋の説明となります。

新川橋は、昭和5年(1930年)2月15日の竣工で、形式は一の橋と同じく鋼桁橋、橋長16.0m、幅員15.0mの震災復興橋梁です。

震災復興事業により、橋の新設とともに橋詰広場が4か所に設置されましたが、やはり現在は全く残っていません。

では、写真で見ていきたいと思います。

まず、下の写真の左上(【新川全体図】のD地点から撮影)は、新川が流れていた場所で新川橋があった場所(東側)に向かって撮影したものです。緩やかに左にカーブしながら流れていた新川を想像できる場所です。

そして、右上の写真(【新川全体図】のE地点から撮影)は、新川橋があった場所の東側から撮影したもので、交差点の向こうに見える工事現場がそうなんです。新川の遺構があった場所です。左下の写真が工事現場の中の新川の遺構となります。下水道の吐口のようなものも見えます。なお、現在の工事現場はビル建設が進み、残念ながらこの遺構を見ることはできません。

最後の写真(提供:中央区立京橋図書館)は、昭和23年(1948年)に撮影されたもので、東新川橋から新川橋を見たものです。右上の写真と同じ方向から撮影されたものとなります。

 新川に架かっていた4つの橋 ~新川の痕跡を辿って~

 

<東新川橋>

新川橋の次は東新川橋です。

東新川橋は、昭和3年(1928年)8月1日の竣工で、関東大震災後の土地区画整理により、新川地区を斜めに分断する幹線道路(鍜冶橋通り)が新設され、それとともに新川に架けられました。形式はコンクリートアーチ橋、橋長18.5m、幅員22.0mの震災復興橋梁です。

震災復興事業により、橋の新設とともに橋詰広場が4か所に設置され、現在は左岸上流側にのみ「東新川橋際公衆便所」として、その名とともに残っています。

では、写真で見ていきたいと思います。

下の写真左(【新川全体図】のF地点から撮影)は、先ほどの新川橋があった場所から東新川橋があった場所を見たものです。地理院地図の断面図でもおわかりのように、ここは結構な起伏があるところで、東側に向かっていったん下って、その後、上り坂になっています。

右下の写真(提供:中央区立京橋図書館)は、昭和5年(1930年)に撮影された東新川橋で、東新川橋の東側から撮影されたものと思われます。

 新川に架かっていた4つの橋 ~新川の痕跡を辿って~

次の写真(【新川全体図】のG地点から撮影)は、東新川橋があった鍛冶橋通りを東側から見た写真で、右側(北側)に傾斜しているのが、地理院地図の断面図とともにおわかりだと思います。また、手前の道路から橋があった鍛冶橋通りに向けてが上り坂、通りを過ぎると下り坂になっています。

 新川に架かっていた4つの橋 ~新川の痕跡を辿って~

 

<三の橋>

最後の橋は三の橋です。

三の橋は、大正15年(1926年)2月25日の竣工で、形式はコンクリート桁橋、橋長13.5m、幅員8.0mの震災復興橋梁です。

震災復興事業により、橋の新設とともに橋詰広場が右岸下流側を除く3か所に設置され、現在は左岸下流側にのみ「新川公園」の一部として残っています。

では、写真で見ていきたいと思います。

下の写真(【新川全体図】のH地点から撮影)は、三の橋があった場所を北側から撮影したものです。この道路も橋があった場所に向かって上り坂になっているのが、地理院地図の断面図とともにおわかりかと思います。ただし、この地点はすぐ東側に隅田川があり、そのスーパー堤防に向かっての上り坂であるので、三の橋の痕跡とは言えそうもありません。

 新川に架かっていた4つの橋 ~新川の痕跡を辿って~

 

<隅田川合流点>

新川公園の一番東側にある金網(後ろが隅田川)に「東京都下水道局高潮防潮扉」(*)の看板(下の写真の左上)を見つけました。ここに高潮防潮扉があるということは、この下に雨水等を隅田川に放流する施設があるということだろうか、と思って、隅田川テラスとして整備されている護岸(以下「テラス」といいます。)に降りてみると、その看板があった場所の真下の茂みの中に、白いガードレールのようなもの(右上の写真)があり、隅田川に接するテラスの端には3m弱の凹み(左下の写真)がありました。はて、これはいったい何を物語っているのか…。

そこで、看板に書いてあった管理者の中部下水道事務所に問い合わせてみたのですが、この扉は同事務所の所管リストにはなく、今は使用されているものではないとのことでした。そうなると、テラスの端の凹みは、かつて雨水等を放流していた吐口を塞いだ跡なのだろうか…。

新川が埋め立てられた昭和24年(1949年)当時の写真(下中央の写真、東新川橋から三の橋を見たもの、提供:中央区立京橋図書館)があったので、それを見てみると、下水道管でしょうか、ちょうどこの看板の下に当たる位置に水道管が敷設されていたことがわかりました。

以上のことから、ここが新川の隅田川との合流点(右下の写真)であったことは間違いないと思います。

(*)「中央区地域防災計画(令和3年修正) 中央区防災会議」には、「隅田川高潮堤(右)並びに日本橋川高潮堤にある下水道吐口の防潮扉は、高潮による水災を防ぎょし、被害を軽減する目的で設置している」とあります。

 新川に架かっていた4つの橋 ~新川の痕跡を辿って~

おわりに

新川の痕跡を辿って、新川を埋め立てた道路を歩いてきましたが、その道路は微妙にカーブし、橋があった場所には起伏があり、改めて河川を埋め立てた跡がよくわかりました。

中央区には、かつて多くの河川や運河がありましたが、今ではそのほとんどが埋め立てられ、道路や公園等へと姿を変えています。しかし、そのような場所を訪れ、昔の光景を思い浮かべながら歩くことはとても楽しいものです。もしかしたら、工事現場で河川の遺構に遭遇するかもしれません。

皆さんも新川の跡を歩き、上方から新酒が到着して活気づく新川河岸の様子を想像してみませんか。

 

【主な参考資料・引用文献等】 ※ 一部本文内に記載

・「中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋梁・橋詰広場 ー中央区近代橋梁調査ー」中央区教育委員会、平成10年3月2日 発行

・「中央区沿革図集[京橋篇]」中央区立京橋図書館、平成8年3月31日発行

・岡本哲志「川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩」PHP研究所、2017年11月29日発行

・岡村岑三郎「東京新川の今昔」岡村岑三郎、昭和38年8月15日発行

・佐藤正之「TOKYO新川ストーリー」日本評論社、1991年6月10日発行

・望月由隆「新川物語 -酒問屋の盛衰-」文藝春秋企画出版部、2010年4月15日発行