ウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステン・・・
おまけ情報も満載です
~ どうする家康・VIVANT・アナログ ~
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
NHK大河ドラマ「どうする家康」、29日の放送でイギリス人航海士 ウィリアム・アダムス(日本名・三浦按針)登場ですね。村雨辰剛(むらさめ たつまさ)さんが役を演じています。
中央区には「三浦按針遺跡」があります。
まずはそこからご紹介します。
三浦按針遺跡
ウイリアム・アダムス(※1)は西暦1564年イギリスのケント州に生まれ、慶長5年(1600年)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。
造船・砲術・地理・數學等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に通商の顧問となり、日英貿易等に貢獻し、元和6年(1620年)4月24日平戸に歿した。
日本名三浦按針は相模國三浦逸(※2)見に領地を有し、またもと航海長であったことに由來し、この地も昭和初年まで按針町と呼ばれた(※3)。
※1 この碑には「ウイリアム・アダムス」と、イの字が大きく書かれています。
ここより後は、書かれているとおりに「ィ」と「イ」を使い分けます。
※2 書いてありますのは部首「しんにょう」の、点がひとつ多いもの、「遹」の部首と同じです。
※3 「按針町」は現在の日本橋室町1丁目・日本橋本町1丁目。
三浦按針遺跡
ー 家康の厚遇により日本名を得た英国人 ー
オランダ東印度会社の航海士、英国人ウィリアム・アダムスは、慶長5年(1600年)、暴風のため豊後国(びんごのくに:現在の大分県)に漂着した。
アダムスは日本人女性と結婚し、将軍から三浦按針(みうらあんじん)という日本名を得た。
彼の江戸屋敷の周辺は昭和初期まで按針町と呼ばれた。
昭和5年に屋敷跡は、東京府史跡の指定を受けた。(現:東京都指定文化財)
その際、地元有志の手で記念碑を建設したが、戦災で破壊されたため、昭和26年に現在の記念碑を再建した。
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
・・・とてもひっそりと建てられていて、気付かず通り過ぎる人も多いのではないでしょうか。
ヤン・ヨーステン記念碑(八重洲通り・中央分離帯)
「ヤン・ヨーステン記念碑」と、「ヤン・ヨーステン記念像」がありますが、まずは八重洲通りの中央分離帯にある碑から。
日本とオランダの関係は、ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンらの来航によって始まった。
1609年(慶長14年)平戸にオランダ商館が設立され(後に長崎に移る)、鎖国時代の日本のヨーロッパに対する唯一の窓口になり続けた。
オランダがもたらした学術・文物が日本に与えた影響は大きく、明治以後の日本近代化の大きな礎になった。
とくに中央区とオランダとの歴史的な関係も深く、日蘭修好380周年を記念してここにモニュメントを設置し、永久にこの友好を保存するものである。
1989年4月20日 東京都中央区
ヤン・ヨーステン 1557頃~1623
1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号でウイリアム・アダムスらと豊後に漂着した。
そのまま日本に留まり、徳川家康の信任を得て、外交や貿易について進言する役目についた。
彼の江戸屋敷は現在の和田倉門ー日比谷間の内濠の沿岸に与えられ、この地が彼の名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続いた。
現在は中央区の八重洲としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っている。
ヤン・ヨーステン像:オランダ人 L . P. プラート作
ヤン・ヨーステン記念碑
ー 家康の片腕として活躍したオランダ人航海士の碑 ー
豊後に漂着したヤン・ヨーステンは、徳川家康の信任を得て日本に定住。
ウィリアム・アダムス(三浦按針)と共に家康の外交顧問や通訳として活躍、アジアでの朱印船貿易に従事した。
八重洲という地名は、彼の名前の拝領屋敷があったことにちなんだもの。
八重洲通り(中央分離帯)にある記念碑は、日蘭修好380年を記念して平成元年(1989年)に設置された。
八重洲地下街にもヤン・ヨーステンの記念像がある。
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
平和の鐘
ヤン・ヨーステン記念碑の奥に、このモニュメントがあります。
左上に柱が写っていますが、その上に鐘があります。
中央区平和都市宣言
いまいちどたちどまり
平和の尊さをみつめよう
ささやかな幸せも
こよなき繁栄も
平和の光が消えたなら
すべてが失われる
私たちの手にあるこの輝きを
明日の世代に伝えよう
1988年3月15日
この日 私たちは
永遠の平和を願い
中央区が平和都市で
あることを宣言する
キリン像
ヤン・ヨーステン記念碑の隣り、中央通りと八重洲通りの交わるところ、ピタットハウスのスターツさん、そのスターツさんのビルに立っていますキリン像です。
説明板もありませんし、なぜここにキリンが?と思われる方、多いと思います。
実はここはもとは津村順天堂さんのビルでした。
津村順天堂、現在の株式会社ツムラさん、漢方薬や入浴剤などの、あのツムラさんです。
そのツムラさんビル所有の時代に、キリン像は製作されました。
6m25cmの像です。
1989年、昭和64年の設置です。
キリンは漢方では王様の象徴となっているそうで、その意味でここにキリン像が建てられたようです。
王冠を頭に載せていますね。
鍛金彫刻家の安藤泉さんの作品です。
ヤン・ヨーステン記念像(八重洲地下街)
(冒頭画像は像上部のアップです。)
ヤン・ヨーステン記念像、八重洲地下街にあります。
ヤン・ヨーステン記念像
オランダ人LPJブラート作
ヤン・ヨーステンは和蘭人で西暦1600年豊後の海で難破した和蘭船に乗っていた。
そのまま日本に住みつき徳川家康の信任を得、外交や貿易について進言をする役目についた。
その江戸屋敷は和田倉門外堀端にあったので、後に彼の名にちなんで八代洲河岸と称せられ、更に八重洲となった。
ここに彼を偲んで記念像を置く。
ヤン・ヨーステン記念像の左脇にはもうひとつ、説明板があります。
八重洲の由来となったオランダ人 ヤン・ヨーステン ?~1623
ヤン・ヨーステン(オランダ人・日本名、耶楊子・やようす)は、ウイリアム・アダムス(日本名、三浦按針)等とともに慶長5年(1600年)に豊後(現・大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の船員だった。
ヤン・ヨーステンは徳川家康の通訳として重宝され、江戸城下の今の日比谷あたりに屋敷を与えられたので、このあたりの地名を八代洲(やよす)河岸といった。
「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、初めて町名となったのは明治5年(1872年)のこと(現・丸の内一丁目付近)。
その後東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となるが、昭和29年(1954年)には東京駅東側一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。
日本人と結婚したヤン・ヨーステンは、幕府より朱印状を得て、東南アジア中心に幅広く貿易を営んだ。
また慶長14年(1609年)長崎・平戸にオランダ商館が開設されると、日本とオランダとの貿易の発展に尽力した。
のちに、帰国を思い立ったヤン・ヨーステンはバタビア(現・ジャカルタ)に渡り、帰国交渉をしたが不調に終わり、日本への帰航途中、船が難破して亡くなった。
三越前
突然変わりますが、三浦按針遺跡のそばの三越前です。
TBS系列のTVドラマ「VIVANT」の最終話(9月17日)の最終シーンが、ここ三越前で撮影されました。
8月26日のロケです。ロズマリもエキストラ参加しました。
堺雅人さんの脇は通れませんでしたが、阿部寛さんの脇はすり抜けました。
ロケ終了後、ロケには出番のなかった富栄ドラムさんや、原作・演出の福澤克雄さんが、エキストラの皆さんの求める個別の撮影に応じていました。
画像は本番前の雲の晴れ間待ちです。
こちらの奥には「三井本館」があり、そちらは下町ロケットや半沢直樹、HERO、ゲゲゲの女房など数多くの作品に登場しました。
他、周辺が新参者、麒麟の翼~劇場版・新参者~、祈りの幕が下りる時などの新参者シリーズの舞台となっています関係上、ロケも多くされている区域です。
三越前駅 出入口B5
ここ三越前駅 出入口B5もロケ地です。
ここも三浦按針遺跡のそばにあります。
現在公開中の映画「アナログ」、前半の場面です。
主演の二宮和也さん、日本橋のオープンカフェでの打ち合わせの帰りのシーン、ここの出入口で「日本橋」の文字をバックに撮影されました。
なお、同じくオープンカフェのロケも、日本橋のたもとで撮影されました。
三浦按針遺跡 地図
「三浦按針遺跡」は日本橋室町1-10ー8、按針通りの中ほど、上の地図の右上の赤い丸の地点です。
「三越前」は左上の青い星印のところです。
「三越前駅 出入口B5」は中央左の赤い星印のところ、アンテナショップ 日本橋とやま館の壁沿いになります。
ヤン・ヨーステン記念碑 地図
「ヤン・ヨーステン記念碑」は上の地図の中央右、赤い丸で囲った『現在地』、中央分離帯にあります。
「平和の鐘」はヤン・ヨーステン記念碑の左隣りにあり、右隣りにもプレートがあります。
「キリン像」はヤン・ヨーステン記念碑の右上、青い星印、交差点角です。
「ヤン・ヨーステン記念像」は八重洲地下街のほぼ中央、東京駅八重洲中央口からは八重洲地下街メインアベニューよりすぐの、外堀地下1番通りを右折、左6店舗めの「俺のイタリアン」と7店舗めの「旭川ラーメン 遊亀亭」の間にひっそりと建てられています。(八重洲地下街図には載っていません。)