映画「祈りの幕が下りる時」
キーとなる12の橋、ご紹介します ①
ー 1月 柳橋 ー
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
『映画「祈りの幕が下りる時」 キーとなる12の橋、ご紹介します』シリーズ、今回はその第1回、柳橋(やなぎばし)をご紹介します。
このシリーズは前回「イントロダクション」でご説明しましたとおり、映画「祈りの幕が下りる時」に登場しました橋、キーとなる12の橋を、月ごとにご紹介してまいります。
なお、柳橋に関する記事は、過去3度掲載させていただいております。
⇒ 2017年12月27日『映画 「祈りの幕が下りる時」ロケ地めぐり ⑥』
⇒ 2020年6月9日『「新参者」と人形町 10年を考察 ⑨ ~書籍に描かれている中央区~』
⇒ 2020年7月28日『「新参者」 10年を考察 番外編 ① ~柳橋~』
柳橋は・・・
東京都三鷹市の井の頭池(湧水地)を水源とする神田川は、都心を蛇行しながら東へと流路をとる延長約25kmの一級河川です。
なお、江戸城外堀と合流する千代田区飯田橋からは、JR線(中央本線)に沿って真っすぐ流れ、万世橋から先もそのまま東流して隅田川に至ります。
隅田川まで真東に流れるこの水路は、元和6年(1620年)に開削された人工の掘割(平川放水路)がもとになっており、その後も仙台藩(4代伊達綱村)による拡幅工事が行われて神田川の舟運が整備されました。
船入堀を利用して物資の流通が行われた神田川には、川に面して多数の河岸が設けられていきました。
特に神田川最下流の柳橋は、隅田川に合流する河口という立地から水上交通や船遊びの拠点となりました。
周辺には新吉原・向島通いの猪牙船(ちょきぶね:猪の牙のように舳先が尖った屋根のない小船)や隅田川での船遊び客(月見・花火・川上りなど)に貸船を仕立てる船宿が集まり、川柳にも「柳橋川へ蒲団をほうりこみ」とうたわれるほどのにぎわいを見せていました。
なお、「御府内備考」によると、下柳原同朋町(現在の東日本橋2丁目)と浅草下平右衛門町(現在の台東区柳橋1丁目)との間を渡した柳橋は、元禄11年(1698年)の創架当初「川口出口之橋」と呼ばれていたとあります。
後に柳橋と称され、付近一帯は幕末・明治期に至って急速に繁華街となり、新橋とともに人気の高い花柳街(「栁新二橋」と称される)が形成されました。
柳橋の橋そのものは、江戸・明治期を通じて何度か架け替えられており、明治20年(1887年)には初めて鋼鉄製のトラス橋となりました。
その後、関東大震災後の帝都復興事業で改架された鋼鉄橋が現在の柳橋になります。
昭和4年(1929年)竣工の柳橋は、船の航行を妨げないように橋脚が少なく、橋梁本体の下に路面がある下路式鋼製ソリッドリブタイドアーチ構造の橋(橋長約38m・幅員約11m)です。
また、永代橋(大正15年竣工)のデザインが採用されているだけに、男性的で重量感のある意匠と橋梁技術の高さが見て取れます。
風趣に富んだかつての柳橋の情景は、成島柳北「柳橋新誌」、森鴎外「青年」、永井荷風「牡丹の客」、横光利一「紋章」などにも描かれていますが、現在の柳橋付近で営む数軒の船宿や料亭、石塚稲荷神社(台東区柳橋1丁目5番1号)玉垣(料亭屋号の刻銘 ※)などからもその一端がうかがえます。
※ 石塚稲荷神社の玉垣には、「亀清【=亀清楼:大相撲の横綱審議委員会が開かれていたことで有名な料亭、現在は営業していないようです】」、「栁光亭」、「深川亭」の屋号刻銘の他、「柳橋藝伎組合」「柳橋料亭組合」という文字もあります。
ー 中央区ホームページ 広報誌コラム 「区内の文化財」より ー
柳橋は、区民有形文化財建造物です。
上の2枚の画像、柳橋の実際の風景と、「祈りの幕が下りる時」単行本の表紙、同じですね。
柳橋は神田川の河口に架かる橋です。
河口側からのアングルです。
父・忠雄と娘・博美が秘かに逢う手段として、「12の橋」で月ごとに逢う橋(場所)を変える、川を挟んで向き合う、ということは最後の手段でした。
最初は上野動物園のサル山の前、しかし博美がファンに気付かれてしまいます。
次は都内のシティホテル、ここでも博美が尾行されて忠雄が揉め事を起こしてしまい、NG。
そして「橋巡り」に落ち着いた次第。
日本橋は博美が初舞台を踏んだ明治座の近くですし。
・・・「祈りの幕が下りる時」は、原作の小説からそのようなストーリーでした。
この柳橋の欄干には、花街にちなんで「かんざし」のレリーフ(浮彫り)がいくつも飾られています。
「玉かんざし」でしょうね。その玉、いわゆる宝石部分の赤いものを撮影しましたが、ここが青いものも飾られていました。
柳橋は、かつて江戸随一の歓楽街で両国とはすぐ近く、そして吉原方面への渡船場でした。
更に柳橋自体も芸者さんの街でしたので、料亭や船宿などが立ち並ぶ、とても情緒あるところでした。
現在も川の両岸に屋形船の発着所が並んでいます。
この画像は、柳橋の隣りにあります「両国橋(りょうごくばし)」です。
~ 両国の川開きは隅田川 花火大会のルーツ ~
隅田川では千住大橋に次いで古い橋で、明暦3年(1657年)の大火を契機として万治元年(1659年)【寛文元年(1661年)ともいわれる】に架橋された。
当時は大橋という呼び名だったが、隅田川をはさんで武蔵国と下総国の両国を結ぶ橋であることから両国橋に変わった。
平成20年、東京都選定歴史的建造物に選定された。
~ 両国の川開き ~
享保17年(1732年)は例をみないほどの凶作で、しかも疫病の流行が重なって多くの死者を出した。
事態を憂慮した8代将軍徳川吉宗は、翌享保18年、悪病退散と死者の慰霊を祈願する水神祭(すいじんさい)を隅田川で催したといわれる。
祭りの期間は、旧暦の5月28日から8月28日の3か月間とされた。
初日には、両国橋のたもとの舟宿や料亭が費用を出し合い、幕府の許しを得て川施餓鬼(かわせがき:死者の霊を供養する会)を行って花火を打ち上げた。
この時の花火師は横山町の6代目鍵屋弥兵衛(かぎややへえ)で、打ち上げた花火は20発前後だったといわれる。
花火の数こそ少なかったが、江戸っ子に与えた衝撃は大きく、川開きの花火は恒例化した。
花火師には、鍵屋から独立した両国吉川町の玉屋市郎兵衛(たまやいちろうべえ)が加わり、両国橋から上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持ち、互いに技を競い合うようになって人気が沸騰。
両国の川開きは、江戸っ子の夏を代表する風物詩へと発展していく。
・・・(中略)だが交通事情の悪化などにより昭和37年に中止され、17年間の空白期間を経て昭和53年(1978年)に「隅田川花火大会」として復活した。
かつて両国橋のたもとにあった打ち上げ場所は上流に移動し、・・・(後略)
ー 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ー
柳橋
東日本橋2丁目~台東区柳橋2丁目
上の地図上の赤丸の橋です。
なお、両国橋は、その赤丸の下にある大きな橋です。