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150年前のインバウンド・ホテル——築地ホテル館

和洋折衷の新名所となった築地ホテル館の錦絵(中央区立京橋図書館所蔵)

 

インバウンドによる宿泊需要を当て込み、中央区でも高級ホテルの開業が目立っています。昨年、八重洲に誕生した「ブルガリホテル東京」は、先ごろ新設・発表された「ミシュランガイド」のホテルセレクション(日本版)で早くも最上級(6軒)の1つにランクインしました。一方、日本橋1丁目の再開発地域では、米国でもトップクラスの格式を誇る「ウォルドーフ・アストリア」の進出が2年後に予定されています。こうした海外からの上級顧客を想定した本格ホテルの〝元祖〟といわれるのが、150年ほど前、当時の外国人居留地付近に出現した「築地ホテル館」。謎多きその姿を探ってみましょう。

 150年前のインバウンド・ホテル——築地ホテル館

広大な築地市場跡地がインバウンド受け入れの原点?

 

銀座4丁目の交差点から晴海通りを隅田川に向かって進むと、勝鬨橋手前の右手一帯に白板塀に囲まれた築地中央卸売市場の跡地が広がっています。晴海通り沿いに建つ説明板には、古地図とともに「軍艦操練所跡」の表記が。黒船来航に慌てた江戸幕府が西洋式海軍の創設に向けて航海術や砲術などを幕府エリートに伝授した教習所跡とのことです。

 

その説明の最後に短く添えられているのが、操練所の他所への移転後、この地に「日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられました」との一文。海軍教育で列強の圧力に備える一方、貿易で国を潤すべく海外からの千客万来を期して建設されたのが、このホテルだったのです。

 150年前のインバウンド・ホテル——築地ホテル館

〝元祖・本格ホテル〟生誕の地を示す説明板

 

 安政5年(1858)の「日米修好通商条約」を皮切りに新たな開港や開市場に踏み切った幕府にとって、それら新開地に外国人居留地や宿泊施設を設けることは待った無しの課題でした。幕府はお膝元の宿の設計者として横浜在住の米国人建築家R.P.プリジェンスに白羽の矢を立て、施工の発注は現・清水建設の創業者の婿養子、二代清水喜助へ。幕府が無償で土地を貸し、民間が自前の資金で建物を建設・運営する仕組みでした。

 

総工費3万両と見積もったものの、当初、喜助が用意した元手は2500両。残りは仲間組合を作って株主から不足分をかき集めようとの算段でしたが、慶応3年(1867)夏に工事に取り掛かってわずか2か月ほどで幕府は大政奉還。翌4年春に官軍が江戸に無血入城を果たすと、まもなく上野で彰義隊が反乱を起こし、ホテル建設の槌音に混じって大砲の音が鳴り響く有様に。突然の施主交代による混乱に翻弄された喜助でしたが、新政府からの新たな借り入れで息を吹き返すと慶応4年(18688月、ようやくホテルの完成にこぎつけます。

 150年前のインバウンド・ホテル——築地ホテル館

米英などの外国旗も翻る国際色豊かなたたずまい(京橋図書館所蔵)

 

 ホテルの正確な開業日は記録が乏しいので、竣工の少し後と見なすほかありませんが、その規模をいくつかの資料から探ってみると、約7000坪の土地に2階建ての本館が左右対称に建ち、延べ床面積は1600坪前後という広壮な木造建築。中央にはロビーとおぼしき「広間」があり、その真上部分には風見のついた尖頭を持つ塔屋が聳えていたようです。塔の先端までは94尺ともいわれているので、30㍍近い高さがあったのかもしれません。

 

他に平屋の別館もあって客室数は全100室余り、宿泊客も100人ほどを収容できた模様。ただ、当時、ホテルを訪れた英国人サミュエル・モスマンは、この規模ならヨーロッパでは300人が泊まれると、その著書に記しているそうです。ちなみに宿泊料については食事つき一泊3㌦(9分)で、彼によれば「妥当」な値段とのこと。

 

 150年前のインバウンド・ホテル——築地ホテル館

日本の伝統技術と異国趣味がミックスした威容に、見物人も後を絶たない様子(京橋図書館所蔵)

 

 日本人の度肝を抜いたであろう新名所だけに、ホテル館を描いた錦絵は100種を超すとも。その中でホテル館の印象を決定づけているのが、土蔵建築などによく見られる「ナマコ壁」の存在で、黒い瓦を並べて目地に白い漆喰を施したこの外壁は、外国人が苦手とする隙間風を封じるため一役買ったようです。錦絵や見聞記などを照らし合わせると、庭には築山や盆栽、背後には海、ホテルを囲む塀の入り口には武家屋敷風の長屋門(後にアーチ門に改造)……。門の内に広いスペースがあるのは、ホテル館が交易の場も兼ねていた証しでしょうか。

 

 150年前のインバウンド・ホテル——築地ホテル館

当初は船で海上から入館できる計画だったが安全上の理由で中止されたとも(京橋図書館所蔵)

 

 一方、屋内には食堂やビリヤード室も備えていて、壁は漆喰で白く塗られ、窓にはカーテン、階段室の手すりは春慶塗。バス・トイレは共用らしいものの、部屋には暖炉があり、世間では「暖炉(ストーブ)を備ふ館に酒くみて足もホテル(火照る)に眠る外人」という狂歌も生まれました。日本古来の伝統とバタ臭さが入り混じった風変りでダイナミックな建物は、物見高い人々の関心の的だったようです。

 150年前のインバウンド・ホテル——築地ホテル館

西洋風の手すりが巡るベランダには中国風のランプが(京橋図書館所蔵)

 

 この異国情緒たっぷりの舞台を小説に取り込んだのが山田風太郎のミステリー「明治断頭台」。事もあろうに、築地ホテル館のホールに血まみれの死体が転がっていたという設定です。登場人物もフランス人の巫女や伝説の女形・沢村田之助、少年時代の内村鑑三等々虚実入り混じり、その奇想天外なストーリー展開は風太郎先生の面目躍如といったところ。捜査に絡んで、主人公たちが物見の塔から居留地を眺め下ろすシーンなど、実際には不明な点が多いホテルについて、作家の空想がはばたく様子もうかがえます。

 

 150年前のインバウンド・ホテル——築地ホテル館

食卓にはワインのようなボトルも(京橋図書館所蔵)

 

 構造はもとよりサービス内容も謎だらけですが、今に残る会食風景の絵を見ると、ワインなども楽しんでいた模様。英国の外交官アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』には、「ホテルで一級の夕食をごちそうしてくれた」「その後ホテルから遅めの昼食が運び込まれた」など、彼が飲食に訪れたほか、ケータリングも利用していた様子が描かれています。

 

このホテルとかかわった人物の1人が、今年、新しい5000円札の顔となった教育家・津田梅子の父親、津田仙でした。下総の国(現・千葉県)佐倉で中級武士の子として生まれた仙は、江戸で蘭学・英学を学び、幕府の通弁(通訳)となって慶応3年(1867)、訪米使節団に随行。一行は米国大統領に謁見し、軍艦や武器弾薬、書籍なども購入して5カ月後に帰国しましたが、仙は滞米中、特に米国の農家の地位の高さに感銘を受け、日本での農業発展を期して野菜や果物の種や苗の入手にも努めたといいます。

 

そして帰国後、新設となった築地ホテル館で理事として2年ほど勤務。ホテルが外国人客に供する新鮮な西洋野菜の調達に困っていた折、仙は米国などから取り寄せた種をみずからの菜園にまいて育て、宿泊客に提供したようです。

 150年前のインバウンド・ホテル——築地ホテル館

ホテルの平面図(京橋図書館所蔵)

 

 こうして手探り状態で異文化の取り込みに挑んだ本格ホテル第一号でしたが、その終焉はあっけなく訪れます。実は、居留地自体の賑わいも横浜のそれには及ばず、ホテルの客も期待したほどには集まらなくて、早くも明治3年(1870)夏にはホテル廃業の憂き目に。交代した経営者の下で更なる試行錯誤を繰り返し、ついには半官半民から民営へと形を変えて再起を期したのも束の間、明治5年(18722月、銀座の大火のあおりでホテル館は灰燼に帰してしまったのです。わずか4年弱の短い命でした。

 

それでも単なる物まねに留まらない和洋折衷の館で先人たちが新時代のホスピタリティーを模索した〝幻のホテル〟の残像は、この先も変わらず生き続けることでしょう。

 

▽主な参考資料

 

「日本のホテル小史」 村岡実 中公新書

「日本ホテル館物語」長谷川堯 プレジデント社

「幕末・明治のホテルと旅券」 大鹿武 築地書館

「一外交官の見た明治維新」 アーネスト・サトウ(鈴木悠・訳) 講談社学術文庫

「明治断頭台」 山田風太郎 角川文庫

「津田仙評伝——もう一つの近代化をめざした人」 高崎宗司 草風館

「ヘリテージ」第4-6回「絵図で辿る三大洋風建築『築地ホテル館』」 清水建設歴史資料館

https://www.shimzarchives.jp/heritage/