蔦屋重三郎、「べらぼう」と江戸ことば

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」が始まりました。
江戸時代の出版プロデューサーとして名を馳せた蔦屋重三郎ですが、どんな風貌の人だったのでしょうか?
上の絵は、蔦重の肖像としてよく使われている絵で、山東京伝の黄表紙「箱入娘面屋人魚」の序文に版元として登場し、口上を述べている場面です。
「まじめなる口上」と題し、蔦重が正座し手をついてかしこまっています。この年、寛政の改革による出版物規制に抵触して、京伝は手鎖(てぐさり)50日の刑、蔦重は財産の半分を没収されています。序文の内容は、このため、最近やる気を無くしてしまった京伝にどうにか頼み込んで新作を書いてもらったというのもで、蔦重はかしこまってお願いしているポーズを取っています。
蔦重41歳の頃です。この絵の蔦重は何とも温和で優しそうな感じです。
蔦重は他の黄表紙や狂歌本にも度々登場していますので、他の絵も見てみましょう。
下の絵は、狂歌本「吉原大通会」に描かれたまだ若い蔦重34歳頃の絵です。
吉原で開かれた狂歌師の宴会の様子を描いた絵で、左下にいるのが蔦重(狂歌名:蔦唐丸)です。宴会にはこの狂歌本の著者、恋川春町(狂歌名:酒上不埒)の他、大田南畝(狂歌名:四方赤良)、朋誠堂喜三二(狂歌名:手柄岡持)など、蔦重が出版した黄表紙や狂歌本の作者も描かれいます。

もう2枚、
左下の絵は、山東京伝のもとに執筆依頼に訪れている蔦重。 左の机に座っているのが京伝、右に座る蔦重が執筆の催促をしている様子。まん中でお茶を出しているのが京伝の妻・お菊。山東京伝の黄表紙「堪忍袋緒〆善玉」の巻頭に登場する蔦重、43歳頃です。
右下は、蔦重自作の黄表紙「身体開帳略縁起」の巻末に登場する裃を着た蔦重です。絵は北尾重政。蔦重が亡くなる直前の47歳頃の絵です。

以上、黄表紙や狂歌本に出てくる蔦重の絵を調べてみました。敏腕プロデューサーだった蔦重ですが、絵を見ると、腰が低く頭を下げている絵が多いですね。中肉中背でわりと細面、温和で優しそうな感じの風貌だったようです。
蔦重は当時「江戸わずらい」と呼ばれていた脚気(かっけ)で死去します。享年48歳でした。

蔦重の墓所跡の碑がある東浅草の正法寺には、石川雅望・大田南畝による「喜多川柯理(からまる)墓碣銘(ぼけつめい)」という碑文があり、蔦重の生い立ちから最期までや、蔦重の人柄についても以下のように書かれています。
「その人となりは、志、人格、才知が殊(こと)に優れ、小さな事を気にもかけず、人には信頼をもって接した」
正法寺には蔦屋家(喜多川家)先祖累代の墓碑、蔦重と母の顕彰碑、萬霊塔(ばんれいとう)が建てられています。
蔦重の墓は残念ながらこれまでの火災・震災・空襲で失われれしまいましたが、寺が灰塵に帰するたびに歴代住職が遺骨をかき集めて萬霊塔に安置し守り続けています。
「べらぼう」と江戸ことば
さて、話は変わりますが、ドラマのタイトル「べらぼう」、ドラマ中でも「このべらぼうが!」とか「べらぼうめ!」と度々使われています。時代劇などでも威勢のいい江戸っ子が言い放つ「べらぼうめ!」。
この「べらぼう」についても調べてみました。
「べらぼう」は、もともと「たわけ。ばか。あほう。」など、人をののしる言葉。接尾語「め」が付き、「べらぼうめ!」と使われます。人をののしる言葉から発展し、「常識はずれ」「ばかげている」「程度がひどい」こと意味する江戸ことば(方言)としても使われるようになりました。
■「べらんめえ!」は「べらぼうめ!」から
江戸下町の町人や職人が使う言葉は「べらんめえ調」と呼ばれますが、この「べらんめえ!」は、「べらぼうめ!」から進化した言葉。「べらんめえ!こちとら江戸っ子よ!」というふうに使われます。
■「あたぼうよ!」
そしてよく使われる「あたぼうよ!」ですが、
例えば、「威勢がいいねぇ」と言われたら、「あたぼうよ!こちとら江戸っ子でぇ」と返します。
この「あたぼうよ!」は、「あたりめえよ、べらぼうめ!」を縮めた言葉です。
■「てやんでぇ」
「何を言っているんだ」という意味の「てやんでぇ」。
「べらぼうめ!」と一緒に使われ、「てやんでぇ、べらぼうめ!」となり、「何を言ってやがる、この馬鹿者が!」となるのです。
江戸ことば、調べてみると面白いですね。
NHKドラマ「べらぼう」でも今後色々な江戸ことばが出てくるのが楽しみにです。
絵の出典:国立国会図書館デジタルコレクション
「箱入娘面屋人魚」(山東京伝、寛政3 (1791))、狂歌本「吉原大通会」(恋川春町、天明4(1784)])、
「堪忍袋緒〆善玉」(山東京伝 、寛政5(1793))、「身体開帳略縁起」(蔦唐丸、寛政9(1797))