Hanes

【遠足シリーズ第58弾】思いがけない展開に鳥肌!石見銀山で銀座を感じる


こんにちは、Hanes(ハネス)です。
しばらく前に、島根県にある世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」を訪れる機会がありました。
龍源寺間歩から森の中の道を通って駐車場に戻る途中、石見銀山観光ガイドの方と偶然お話しする機会に恵まれ、銀座や築地のある東京の中央区から来た旨をお伝えしました。

 【遠足シリーズ第58弾】思いがけない展開に鳥肌!石見銀山で銀座を感じる


銀つながりで銀座に関する歴史を簡単に見てみると、過去記事「【遠足シリーズ第3弾】銀座のルーツをたどって...」では、今日の銀座は1612年に駿府から江戸に移されたものだということにふれました。

しかし今回は、「石見銀山と中央区にはこれといった関係はないだろう」と高を括ったうえで観光ガイドの方のお話に耳を傾けていると、「ここが元々の『銀座通り』なんですよね」と思いがけない発言が...

はい、そしてこちらがその「銀座通り」です!

 【遠足シリーズ第58弾】思いがけない展開に鳥肌!石見銀山で銀座を感じる


石見銀山で採掘された銀は、まさにここを通って運ばれたようです。
下の写真の右奥にのびる道は「石見銀山街道」と呼ばれ、その銀を日本海に面した鞆ケ浦まで運ぶルートとなっていました。

 【遠足シリーズ第58弾】思いがけない展開に鳥肌!石見銀山で銀座を感じる


石見銀山世界遺産センターの資料「石見銀山の発見と採掘の始まり」には、以下の解説があります。

「江戸幕府は、貨幣の原料を確保する必要から、全国の主要鉱山を直轄地として支配し、毎年多くの金銀が幕府へと上納され、これらはのち金座・銀座で小判や丁銀に鋳造されました。」

「灰吹銀の輸送は、(...)尾道から瀬戸内海を通り、大坂にて水揚げをして大坂銀座もしくは大坂御銀蔵に納められ、その後京都銀座において幕府が発行する銀貨に鋳造されました。」

 【遠足シリーズ第58弾】思いがけない展開に鳥肌!石見銀山で銀座を感じる


また、中央区観光協会のウェブサイトの「銀座発祥の地」のページでは、以下のように紹介されています。

「『銀座』は(...)、慶長6年(1601)に伏見に創設されました。同11年には駿河にも設けられ、伏見銀座は同13年に京都に、駿河銀座は同17年に江戸の新両替町(現在の銀座二丁目)に移されました。これが銀座の地名の起こりです。」

 【遠足シリーズ第58弾】思いがけない展開に鳥肌!石見銀山で銀座を感じる


石見銀山と江戸は地理的に離れており、石見銀山で採掘された銀は伏見銀座で銀貨にされたことから、石見銀山と新両替町(銀座)には直接の関わりはないかもしれません。

 【遠足シリーズ第58弾】思いがけない展開に鳥肌!石見銀山で銀座を感じる


しかし、石見銀山と新両替町(銀座)は、伏見、駿府を通してつながっているなど、当時の銀座の全国的な広がりに改めて気づくことができたとともに、石見銀山と新両替町(銀座)の関係については、引き続き調べてみようと新たな課題となりました。