たけちゃん

特派員になって1年半後の2023年8月、
忘れられない出会いがあった。
#シーボルトラジオ

本の森ちゅうおうで開催されたシーボルト来航200年記念講演会。登壇したのは、シーボルトから数えて六代目の子孫、関口忠相さん。その他、山本泰人区長、本の森ちゅうおう館長の五所和弘さん、女優の鳳恵弥さん。なかなかの豪華な顔ぶれである。

山本区長は深川祭の帰りで神輿半纏姿。粋、というやつである。

六代目、である。

関口さんはシーボルトの次男ハインリッヒの子孫。学生時代に起業し、コンサルタントとして数々の企業の顧問を務める傍ら、父親で研究者の関口忠志氏を助け、2008年のハインリッヒ没後100年の際に日本シーボルト協会を設立。現在は会長を務めている。

関口さんの話は、時空を超えた冒険譚だった。

ハインリッヒは18歳で兄アレクサンダーとともに来日。1873年のウィーン万博では日本館の出品選定に関わり、連日大盛況で成功を収めた。「考古学」という言葉も、ハインリッヒが書いた『考古説略』が基になっているという。古物会では9代目市川團十郎と交流し、歌舞伎を西洋に紹介したのもハインリッヒだ。

そして日本橋の商家の娘「岩本はな」と結婚。はなは22歳、ハインリッヒは21歳。はなは長唄、琴、三味線、踊り、すべて免許皆伝の腕前だった。

1873年、二人の間に生まれた子を取り上げたのは、異母姉で日本初の女性産科医・楠本イネ。イネの産院は築地にあったはずだが、場所はいまだに不明だという。

「どこかの家に手紙が眠っているかもしれない」と関口さんは言った。

歴史は、終わっていない。

父シーボルトが長崎に入港したとき、著作『Nippon』にこう書いた。「生き生きした緑したたる山の頂、それはまことに絵のように美しい」。その感動から約200年。六代目の子孫が、中央区の講演会で語っている。

なんという巡り合わせだろう。

検定を受けて、特派員になって、ブログを書いたから、こんな話が聞けた。検定を受けていなければ、シーボルト六代目の子孫に会うこともなかった。ウィーン万博の話も、イネの産院の謎も、知らないままだった。

特派員になって、本当によかった。

このブログは2023年に私が書いた

行ってきました!本の森ちゅうおう
シーボルト来航200年記念講演会
「子孫が語るシーボルト父子伝」

を振り返り、コンパクトにまとめたものである。

 

#シーボルトラジオ