CAM

木挽町(2)

先に、木挽町(旧銀座東)の歴史について少し述べましたが、下記のサイトで、かなり詳しく説明されています。

 

 また、「木挽町」は、昭和26年に「銀座東」と改名されるまで1丁目から8丁目まであったと述べましたが、下記のサイトで述べられているとおり、明治6年からは1丁目から10丁目まであったものが、昭和6年に1丁目から8丁目までに再編成されたようです。

 

なお、この昭和6年の再編成の際に合併された「金六町」は、「(旧)京橋小学校」の所在地でした。京橋小学校が統合された跡地に現在の「京橋プラザ」が設置され、「中央区観光協会」がここに所在しているわけですが、元々の地名は金六町、その後は木挽町1丁目だったはずです。

 

https://edo.amebaownd.com/posts/3330427

 

(以下は、上掲サイトからの引用)

 

>「木引町」、「木曳町」とも書いた。江戸城修築の時に木挽職人が多く居住したことに由来する。江戸期は三十間堀川東岸の南北に細長い区域で1~7丁目があった。1660(万治3)年、5丁目(現行の銀座6丁目のうち)に江戸三座の一つ、森田座(守田座)が創立され、1856(安政3)年、浅草猿若町に移転するまで興行を続けた。6丁目(現行の銀座7丁目)の山村長太夫の狂言座は1714(正徳4)年に江島生島事件(絵島生島事件)に連座し廃絶。この他にも河原崎座(のと森田座の控櫓となる)・土佐あやつり芝居等があり、芝居茶屋・料理茶屋も付近に建てられた(江戸名所)。また、享保年間(1716~1735年)頃、5丁目には定火消の役宅があったという。紀井国橋際と汐留川に面する7丁目には舟宿が多く、文久年間(1861~1864)・慶応年間(1865~1868年)頃には汐留川沿いに10軒ほどの舟宿が並んでいたという。

 

 慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1873(明治6)年までに村松町及び豊前中津藩奥平氏・伊予吉田藩伊達氏等の隣接する諸大名上・下屋敷を合併、町域を東側に拡張し1~10丁目を起立。1872(明治5)年の戸数622・人口3,196(府志料)。三十間川沿いの東豊玉河岸には倉庫が多数置かれ、共同物揚場となった(画報)。官庁・銀行・会社等も多数設置され、8丁目(現行の銀座8丁目のうち)には逓信省、10丁目(現行の銀座6丁目の一部)には農商務省が置かれた。

 1878(明治11)年11月2日、東京府京橋区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市京橋区に所属。1931(昭和6)年~1932(昭和7)年、帝都復興計画の一環により、采女町、南水谷町(前身は京橋水谷町)、金六町と新富町1丁目、南八丁堀の一部を合併し、1~8丁目に再編成。1943(昭和18)年7月1日、東京都京橋区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都中央区に所属。1951‘(昭和26)年。「銀座東1~8丁目」と改称して消滅。現行の銀座1~8丁目のうち。