三光稲荷神社の歴史
~ 三光稲荷神社 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をストーリーズ的に取材します、rosemary sea です。
日本橋堀留町にひっそり佇(たたず)む三光稲荷神社さん。
その三光稲荷神社さんにつきましては3月1日に、「三光稲荷神社・ひなまつり・失せ猫祈願」として掲載させていただきました。
今回はその歴史につきまして、ご紹介させていただきます。
この神社を20年以上に亘り管理されていらっしゃる小畑弘(こはた ひろし)さんに、今回もお世話になりました。
それでは・・・
御由緒
御祭神は
三光稲荷大神(さんこういなりおおかみ)
田所稲荷大明神(たどころいなりだいみょうじん)
です。
元禄の時代、名人芸をうたわれた歌舞伎俳優・二代目関三十郎の屋敷内の勧請されていた、とのこと。
関三十郎、大阪の歌舞伎俳優でしたが、旧・堺町の中村座での演技中、場内の霊光のようなひらめきを感じた、とのこと。
それを観た観客も、関三十郎の身体から光が放たれたように見えたそうです。
三十郎、これを神明の加護によるものとして、自分の「三」と、霊光の「光」の2字をつけて「三光稲荷」と名付けた、とされています。
これを旧・長谷川町の大地主・建石三蔵(たていし さんぞう)が自宅の庭に安置し、町内の氏神として崇敬した、と云われています。
もともとは日本橋人形町3丁目に接する道路に面していまして、その前の通りを「三光新道」と呼んでいたそうです。
この三光新道の一部は旧・吉原にも接していました。
昭和8年の区画整理により、現在地に移ってきましたが、三光新道も移りました。
ですから芸伎の参詣も多くあったようです。
そして前回もご説明させていただきました「失せ猫祈願」ですね。
ねずみ除けの守り札も出していたようです。
額
拝殿右上の額。
「日本橋区長谷川町」は現在の「中央区日本橋堀留町」ですね。
千代田区外神田の神田神社宮司で、東京府神職会会長でありました平田盛胤(ひらた もりたね)氏の揮毫と云われています。
参道の石碑
御由緒にも、この石碑の裏にも書かれていますが、昭和29年に建立されました。
MK鋼の発明で有名な、日本の発明家10傑の1人に数えられています三島徳七(みしま とくしち)博士。
その三島徳七・二三子ご夫妻、可愛がっていました猫がいなくなりました。
そこで失せ猫祈願で有名なこの神社に参拝し、祈願しました。
そうしましたら、その猫ちゃん、3か月振りに無事帰ってきた、とのこと。
ご夫妻はそのお礼として、ここに石碑を建てられました。
三光稲荷神社
日本橋堀留町2-1-13
東京メトロ日比谷線・都営浅草線 「人形町駅」 A5出口、またはA4出口の人形町交差点方面を出て、駅上の「人形町交差点」を堀留町方面、つまり自動車車線の一方通行方向に、道路右側(読売ISビルさんのある方)を180~200歩ほど行きますと、右側に「三光稲荷神社」と書かれた参道があります。
そちらを60歩ほど行きますと、神社に到着します。