銀座は昭和9年頃日本一の商店街となった
東京都中央区と言えば、日本橋・銀座が注目される街として挙げられます。共に街は日々変化を遂げていますので、単純には言えませんが皆様は「日本橋は老舗がある街」、「銀座は洒落た店舗がある街」という印象を持たれているのではないかと思います。
明治初頭には銀座の不動産地価は日本橋の1/4でした。不動産の地価が街の価値を示していると考えますと、当時の銀座の商業的な価値は日本橋の1/4となります。それから70年足らずで銀座の商業的な価値は向上し、昭和9年頃には日本橋を抜き去ったと言われています。
その要因としては次に示す環境変化が影響したのではないかと思います:
1. 新橋~横浜間の鉄道開通
2. 外国人居留地(築地と横浜)間の交流(新橋~横浜間の鉄道は両外国人居留地を最接近させました)
3. 明治5年の銀座の大火を契機とする各種インフラの整備(例:煉瓦街)
4. 銀座の目抜き通りに設置された勧工場(かんこば):2021年8月のブログで紹介しました
5. 横浜・築地で創業した名店が銀座に出店
銀座と日本橋の不動産価値比較
「○○銀座」という商店街は平成16年の調査によると、全国に345ケ所あるようです。銀座の「銀座」に憧れて命名したのでしょう。路線価のトップは、中央区銀座五の文具店「鳩居(きゅうきょ)堂」前の銀座中央通りで、1㎡当たり4,272万円。36年連続の日本一となったものの、前年を7%下回りました。
上図の「明治11年と昭和8年の東京都心部の地価比較」から判るように、1887年(明治20年)には銀座の地価は日本橋の1/4程度でしたが昭和8年には同等となり、昭和9年(1934年)には抜き去ったと想像されます。
岡本哲志著「銀座を歩く」に書かれていることを踏襲する恐れもありますが、私なりの分析を行います。
「新橋~横浜間の鉄道開通」
「新しい洒落た街」となってビジネス的にも日本一となったのは、銀座界隈で起こった各種の出来事にも起因しています。
明治になって多くの事件が銀座界隈で起こっていますが、第一は『新橋~横浜間の鉄道開通』です。既に開発され運用を開始していた「横浜と築地の両外国人居留地」が鉄道という新しい交通機関により最接近しました。
新橋~横浜間の運賃は、上等が1円12銭5厘、下等が37銭5厘です。1円を¥20,000として換算すると、それぞれ¥23,000と¥7,500に相当しますので、東海道新幹線東京~名古屋間の指定席券+乗車券合計が¥11,090ですから高価です。決心を要するほどの大旅行であったでしょう。商人がこれだけ投資しても、銀座の店舗が横浜外国人居留地の卸商に仕入れに行っていたという記録が残っています。高額の交通費をかけても利益が出る商品を販売していた訳です。
日本橋では海苔とか鰹節とか比較的安価な商品を販売するのに対し(勿論絹の反物のような高価なものもありますが)、銀座では舶来の高価な商品を少量販売するというビジネス形態が普及しました。 勧工場の普及は下足で店内に入る形式と、ウィンドウショッピングを普及させました。日本橋の座売りとは異なる販売形式が明治維新以降の新しさを求める人々に受け入れられました。
横浜外国人居留地と築地外国人居留地の最接近は、名店の創業地からも判ります。
横浜創業の「太和屋シャツ」(関内)」、「明治屋」(横浜万代町)、「教文館」(横浜山手)などは、横浜で創業ししてから銀座に進出しビジネスを成功させています。またサエグサ・銀座十字屋などは築地外国人居留地周辺で創業し、銀座に進出しました。新橋~横浜の鉄道開通は、横浜外国人居留地からの商品調達を可能としました。
<参考文献>
1) 岡本哲志 「銀座を歩く」 講談社文庫
2) 中央区沿革図集 京橋編 東京都中央区教育委員会