■中央区歴史逍遥<18> 岸田劉生『新古細句銀座通』その2
♣原文紹介 『新古細句銀座通』おもいで(1) ②
*原文の縦書きを横書きに、漢数字を算用数字に変えた。
私の家の隣には勧工場(かんこうば)があって私たち兄弟たちは毎日の様にそこへ行った。何でも私の家の家作であって、南谷という人がやっていた。南谷は今以て人形町に店があるが、きんちゃくが漆(しっ)くいで入口に出来ていたので俗にきんちゃくの勧工場ともいっていた。勧工場も日露戦争後、デパートメント・ストーアの流行とともにだんだんとすたれて、今は殆ど無くなった様だが、当時は少し人出の多い盛り場には必ず一つや二つはあったものだ。銀座だけでも一丁目のもとの読売新聞の1、2軒隣に丸十、そのすじ向いに丸吉、それから南谷、震災前まであった菊屋のところに小さいのが一つ(これはじきになくなった)尾張町の今の博品館と6、7軒の勧工場があったものである。
誠にこの勧工場というものは、明治時代の感じをあらわす一つの尤(もっとも)なるものであって、私共にとっては忘れられない懐かしいものの一つである。細い1間半位の通路の両がわに、玩具、絵草紙、文房具、はては箪笥(たんす)、鏡台、漆器類、いろいろのものを売る店があって品物を並べた「みせだな」の一角に畳1畳位の処に店番に人が小さな火鉢や行火(あんか)をかかえてちんまりと座って、時分時にささやかな箱弁当でも食べていようという光景はとても大正昭和の時代にはふさわない。
夜の灯が電気に占有されたのは大正初めからだが明治時代は一般には石油ランプ、それがおいおいガス灯になったものだが、銀座の勧工場は早くから電気灯がついていた。子供の時分、1丁目の丸吉の勧工場へ夕方行っていて、不図(ふと)天井を見た時、長い廊道の天井に1列についている電気がスーッと一どきについたのを大へん美しく思い、それからよく夕方その電気のともるのを見に行ったものであった。宅の隣の勧工場には早くからアーク灯がついていてその光りの色を私は大へん好んだ。夏になると虫が沢山とんで来て、朝になると、カーボンが歩道に落ちていた。明治34,5年頃のことか隣の勧工場ではガス会社が宣伝のために出張して、美しいガス灯ランプや、ガス風呂、ガス釜など陳列していたが腕白な私がよくそこへ遊びに行きガス会社だからとて得意のガスを発砲してはふざけたものであった。
【上図】著者画「きんちゃくのかんこうば」
(次回へ続く)
資料で見る銀座
【1】銀座1丁目の丸吉勧工場 原文にも載っている「丸吉」。看板には勧業場となっている。(京橋図書館蔵)
【2】銀座のガス灯 (京橋図書館蔵)(@AM)