念願が叶い、熊谷稲荷神社が八丁神社巡りに12社目入り!
以前【地図から消えてしまった800年以上の歴史ある熊谷稲荷神社が3月20日に銀座7丁目花椿通りにお帰りになりました! 2018年4月19日桜やよい】のブログでご紹介させていただきました。
銀座の発展に伴って移転が重なり、いつの間にか歴史的にも鎌倉時代からこの銀座の地に800年も地元の方々に愛され手厚く祀られてきた由緒ある熊谷稲荷神社がビル建て替えでお社の位置が点々移転し、中央区の地図から消えてしまっていました。
念願だった2019年に地図や八丁神社巡り12社目にも入り、やっと銀座の稲荷神社と共に皆様にお披露目できたことをご報告させていただきます。
源平合戦で有名な熊谷次郎直実由来の稲荷神社縁起
鎮座地 中央区銀座7丁目12番9号
御祭神 『宇賀乃御魂神(うがのみたまのみこと)稲荷様』と『八幡大神』の2柱
由来 1184年一ノ谷源平合戦後熊谷次郎直実が鎌倉から郷里の埼玉県熊谷市に凱旋の折、
この地に護符の神札を授けた
大祭日 毎年旧2月2午日
開運と防火に霊験あらたかなお稲荷様
熊谷直実は、平安末期(1141年)から鎌倉前期(1207年)の人で歌舞伎でもお馴染みの源頼朝の家来であり、一ノ谷の戦い「平家物語 敦盛最後」の段で、一騎討の相手として有名です。
熊谷直実ゆかりの神社として、800年以上もの間手厚く守られてきた神社でした。
江戸消防会昭和63年奉納『千社額』
銀座地元の第一区の火消しの頭が奉納した額が飾ってあります。 この中に「竹本」の名前があります。
銀座の町火消しの「も組頭 竹本金太郎」は熊谷稲荷神社の傍に住家があり第2次世界大戦の東京空襲の際、も組頭の妻が戦火が迫る中、熊谷稲荷のご神体を抱えて逃げようとした所、急に重みを感じて動くことができなかったそうです。その時、熊谷稲荷が焼けなかったという実話があり、「防火」に霊験あらたかということがなるほどと頷けます。
右側の狐像「阿形」は小狐を抱えています。
左側の狐像「吽形」宝珠を抱えています。
鳥居の両脇に立っているこの像は結構歴史を感じさせます。
赤い前垂れは「熊谷稲荷神社」の隣にお住まいだった方が手縫いで作ったお品だと伺いました。
本当に地元の方々が今もお守りしていることがよく分かりますね。
①1983昭和58年熊谷稲荷神社の絵と写真
江戸時代・明治時代の地図には①の位置に「熊谷稲荷神社」がありました。
①木挽町6丁目東豊玉河岸地の位置が最初にあった場所だと思われます。1950昭和25年町民の発起により、破損した社殿を改築した姿が上の額です。絵と写真に表されています。
②1988昭和63年から②の場所に遷座されたそうです。ここで銀座の街並みが大きく生まれ変わっていく様が「熊谷稲荷神社」ビルの中や奥まった場所にあったので、参拝できなくなり、存在自体が地図から消えてしまった一因にもなったようです。
③タック銀座ビルの中では、①に近い路上側に遷座されたので、お参りができるようになりました。2009平成21年12月号「散歩の達人銀座ぶらぶら」には1979昭和54年にあった熊谷稲荷神社が地図から消えてしまったと記載されているので、知る人があまりいなくなってしまったようです。
④2018平成30年現在地に遷座なさって、祭主様に伺った話の中でホテルミュッセ銀座店を建て替える時に三十三間堀跡地を2m50㎝掘った下にさらに10m近くの土手が表れ沢山の石が出てきたそうです。
徳川家康が江戸幕府を開く際に西国大名に工事を命じ、1612慶長17年に三十三間堀を掘らせ、1828文政11年に十九間に狭められた経緯があります。近隣にお住まいの方は家を解体する時に人骨が出てきたという話をされていました。
そういう意味でも「熊谷稲荷神社」がこの土地を守ってくださっている存在が大きいことが分かります。
2020年八丁神社巡り12番目の熊谷稲荷神社の御朱印
ホテル ミュッセ 銀座店 1F と創業50年以上の中華料理の老舗『羽衣 銀座本店』との間に鎮座なさっています。
是非銀座にお出掛けの折にお参りください。 次回の銀座八丁神社巡りの時はこの御朱印をいただいてください。