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 開高健『ずばり東京』

   本サイトでは、「みんなの思い出アルバム」で、1964年当時の中央区の「街並み」、「生活」、「祭り・イベント」の写真を掲載していくようですね。

 開高健『ずばり東京』(文春文庫)は、東京オリンピックを控えた当時の東京の変容と熱気についてのルポルタージュで、「週刊朝日」1963年10月4日号から64年11月号まで、58回にわたり連載されたものです。

 冒頭が「空も水も詩もない日本橋」。

次のように述べられています。

「いまの東京の日本橋をわたって心の解放をおぼえる人があるだろうか。ここには“空”も“水”もない。広大さもなければ流転もない。あるのは、よどんだまっ黒の廃液と、頭の上からのしかかってくる鉄骨むきだしの高速道路である。都市の必要のためにこの橋は橋ではなくなったようである。東京の膨張力のためにどぶをまたいでいた、かすかな詩は完全に窒息させられてしまった。そこを通るとき、私たちは、こちらからあちらへ“渡る”というよりは、“潜る”という言葉を味わう。鋼鉄の高速道路で空をさえぎられたこの橋は昼なお薄暗き影の十何メートルかになってしまったのである。橋を渡るのではない。ガード下をくぐるのである。暗い鋼鉄道路を見あげて私たちは、いがらっぽくもたくましい精力を感じさせられはするが、すぐに目を伏せて、心を閉じ、固めたくなる。」

 50年前と比べれば、現在の日本橋川の水質は相当に改善されたと思いますが、空を覆う高速道路は変わらずのままです。しかしながら、日本橋川上空の首都高速道路の地下化は、本年4月30日に都市計画事業の認可を受け、地下ルートが2035年度完成予定、その後、現在の高架橋撤去が40年度に完了する計画ということです。 

 この開高ルポでは、佃島渡船場の船長さん(当時、渡船業務35年目で、64歳)との対話も収録されています。

    この中では、この船長さん、「そりゃぁここらの水はおちぶれたね。戦前は底まで透いて見えたよ。カキがびっしりくっついていたりした。・・・・・竹筒を沈めといて夜なかに這いこむウナギを朝になってしゃくいとったりもしたよ。・・・・とにかく水がきれいだった。 夜になると渡船場の板や柱を食う鉄砲虫の音がムシ、ムシムシって聞こえたもんだが、いまじゃそいつらも消えてしまったな」などと語っています。

 そして、「佃も変わりますよ」と言いながらも、しかし、「佃新橋ができてもタクシーがたくさんやってくるだけで、町はあまり変わらないんじゃないかと思いますね。ここはほかの町とちがうんだからね」などと語っていますが、地下鉄有楽町線(月島駅1988年6月開業)、大江戸線(月島駅2000年12月開業)が開通し、タワーマンションが林立している57年後の現在の姿を見れば何と言われることでしょうか?