こあら

中央区の島物語〜江戸時代の石川島〜

石川島・佃島・新佃島・月島・・・?
月島地区、現代では地下鉄も走っているし、橋もあるし、「島」という感覚がないのは私だけでしょうか?
その成り立ちを「中央区沿革図集-月島篇-」から紐解きます!

石川島はなんで「石川島」って言うの?

石川島はなんで「石川島」って言うの? 中央区の島物語〜江戸時代の石川島〜

現在の佃1〜2丁目がかつて「石川島」でした。
石川島公園や大川端リバーシティ21のあたりです。

時代小説好きな方なら、石川島の人足寄場ね、とピンと来るかもしれません。


では、石川島はなんで「石川島」って言うの?


答えは「石川さんが住んでいたから〜」なのです!

石川さんとは・・・

江戸時代初期、隅田川にある小さな島は「三国島」「森島」または「鎧島」と呼ばれていました。
寛永3年(1626)頃に船手頭の石川八左衛門正次が幕府から約17,000坪の土地を拝領して寄洲を島に築き立てたので、「石川島」と呼ばれるようになったそうです。
石川八左衛門正次は、「船手頭」や「御船奉行」という役職にあり、幕府用線の保管・運行の任務に当たっていました。そのため、石川島は江戸湊を防衛する機能を持っていたと考えられます。

 

石川島の変遷

石川島の変遷 中央区の島物語〜江戸時代の石川島〜

石川島周辺の埋め立ての変遷を地図で辿ってみましょう。

江戸時代初期の地図、武州豊嶋郡江戸庄図(寛永江戸図)寛永9年(1632)には、下のところにかろうじて描かれた石川島。
よく見ると「みこくしま 石川八左衛門」の文字が描かれています。

佃島の出現

佃島の出現 中央区の島物語〜江戸時代の石川島〜

江戸時代中期の明和江戸図(1771年)(「中央区沿革図集-月島篇-」より)には、隅田川に石川島と佃島が描かれています。


佃島は、石川八左衛門が島を築き立てた18年後の正保元年(1644)に現在の大阪府の佃から来た漁民が幕府から拝領して住みつき、故郷の名をとって名付けたものです。

人足寄場の設置

人足寄場の設置 中央区の島物語〜江戸時代の石川島〜

寛政二年之形(1790年)(「中央区沿革図集-月島篇-」より)

その後、屋敷地の東南側にだんだん寄洲ができ、この場所に寛政2年(1790)に人足寄場が置かれました。人足寄場の設置を老中・松平定信に提案をしたのは、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」でお馴染み、火付盗賊改の長谷川平蔵でした。

まだ石川家の名前があります。石川家は拝領以来151年間住んでいたことになりますが、屋敷地を幕府に返却し、麹町永田町に移転しました。

さらに2年後には石川大隅守と書いてあるあたりも人足寄場の土地となり、石川島全体が人足寄場になりました。

人足寄場は軽犯罪者や無宿の人々に対して仕事を教え、出所後に自立させることを趣旨とした施設でした。従来の無宿対策であった佐渡金山の強制労働と比べ人道に配慮したものでした。

島の形にもご注目!この先の尖った形、今の地図でも感じ取ることができますね!

石川島と佃島が合体!

石川島と佃島が合体! 中央区の島物語〜江戸時代の石川島〜

「中央区沿革図集-月島篇-」より

江戸時代後期の伊能忠敬江戸実測図(1817)です。

さらに埋め立てが進み、石川島と佃島が一体になりました。

もう一度、現代の地図と比べてみていただくと、どの部分かが分かりますね。

 

石川島燈台

石川島燈台 中央区の島物語〜江戸時代の石川島〜

東京名勝図会「つくだじま」(広重三代)明治2年(1869)


奥に描かれているのは石川島燈台です。

人足寄場奉行の清水純騎が、江戸湾から日本橋方面に入る船に、その位置を知らせるために、人足寄場で生産した油絞りの益金で、慶応2年(1866)に人足寄場の西岸に作らせた常夜灯でした。

 

 中央区の島物語〜江戸時代の石川島〜

現在、この灯台跡に当時の姿を模した建物があります。

 

明治になるとさらに埋め立てが進んだ月島地区。

その原点は、石川島なのです。

時には島の境目を感じながら、石川島散策を楽しんでみてはいかがでしょうか。