キタムラリョウ

オリジナル月島40分街歩き-ガイド付き パート1(1/2)

「月島40分まち歩きーガイド付き」というのを考えました。実際に歩いて40分程ですので、よかったらブラついてください。

ルート・月島:月島駅→月島川→月島川水門→月島渡し跡→もんじゃストリート→月島温泉・月島観音→東京で一番古い元交番

皆さん、月島という名前ステキだと思いませんか?埋め立てられてできた島、築かれた島なので、漢字で「築く」、「島」、つきしまと最初は名付けられました。その後、月がきれいな島の名所、「月の岬」の名を取り月島になったそうです。

月島という街にどんな印象をお持ちですか?昭和の暮らしを彷彿とさせる街並み、どこか懐かしい下町情緒が残る街でしょうか?空襲で銀座は焼け焦げになったのですが、そこから3キロしか離れていない月島はほとんど焼けることなく、昔の街並みが残ったのです。空襲されなかったのは近くに聖路加病院や教会があったせいともいわれます。

真ん中の写真をご覧ください。このような下町風情があちこちで垣間見られます。ちばてつやの「あしたのジョー」、覚えていますか?「月島物語」を書いた四方田さんは、少年マガジンに描かれた「あしたのジョー」の街の風景はほとんど月島と同じと言っています。

一方、月島は大きく発展している街でもあります。すでに大きなタワーマンション3棟に囲まれていますが、その名前がすごいです。キャピタルゲートプレイス、ミッドタワーグランドやら、ムーンアイランドタワーだの。ムーンアイランドの住民はなんやらおかしな歩き方するそうですよ。ムーンウォークするそうです。右側の写真にはなんやら看板がありますね。月島の顔、もんじゃストリートを挟んで50階を超える大型タワーマンションが2棟できる予定です。この看板、人口が6500人も増えちゃうよと指摘しているだけで、建設には真っ向から反対しているわけではありません。普通、「マンション建設絶対反対!」とかやりますよね。下町の良さを思う気持ちと街の発展を願う気持ちが表れている看板です。

 

月島川に着きました。関東大震災で沢山の方がお亡くなりになりました。

月島川に着きました。関東大震災で沢山の方がお亡くなりになりました。 オリジナル月島40分街歩き-ガイド付き パート1(1/2)

月島橋脇に慰霊碑が左手に見えます。大震火災横死追悼と書いてありますね。「横死」とは天寿を全うしないこと、無念の死のこと。ご冥福をお祈りします。「大震災横死追悼の塔」を正面に見るように立つと右が隅田川、左が晴海や豊洲を結ぶ朝潮運河です。この530mの小さな月島川、昔は「はしけ」と呼ばれる貨物運搬のための小船であふれていて、1930年頃は、そのはしけの中で生活する人もいたそうです。

釣りをしている人がいますね。今はハゼの季節です。先日、会った釣り人は3年前までは朝10時から6時間ほどで100匹ぐらい釣れたけれど、今は釣れなくなったとぼやいていました。

ここに来たらぜひ、川沿いを月島川水門に向かって歩きましょう。4月には川沿いの桜がきれいですよ。

月島川水門、今から60年前に完成しました。

月島川水門、今から60年前に完成しました。 オリジナル月島40分街歩き-ガイド付き パート1(1/2)

海抜0m地域だけに水門ができるまでは水害に苦しめられていたそうです。この水門、結構閉まるんですよ。昨年の台風15号で閉まりました。2年前の台風21号、(強風にあおられたタンカーが関西空港の橋桁にぶつかったのが台風21号です)あの時も水門が閉じました。あと、4年前のチリ地震の津波、そして東日本大震災の時も閉まっています。

水門は光ケーブルで繋がっていて、警報が流れるとセンサーが反応して水門が閉じる、そういった仕組みでこのエリアを守っています。台風が近付くと、雨合羽を着た管理人がやって来て、えっちらおっちら閉めるのではないのです。

右の茶色の高層ビル、サンシティ銀座という高級老人ホームです。吹き抜けになっている一番上の階。あそこは優雅なダイニングルームだそうです。下町の中の別世界ですね。

突き当りを右へ曲がって、わたし児童公園へ向かいます。公園の奥に「月島の渡し跡」の説明があります。

 

月島の渡し跡と隅田川の景色

月島の渡し跡と隅田川の景色 オリジナル月島40分街歩き-ガイド付き パート1(1/2)

今から130年前に鈴木由三郎という人が、この場所で手漕ぎ船を使って有料の渡し船を始めました。その後、乗客が増えたため、東京市が引き継ぎ、汽船2隻を使い無料で、徹夜で渡しを始め、それは勝どき橋ができた1940年まで50年間まで続きました。

隅田川テラスに降りてみましょう。

左に見えるのが勝どき橋、国の重要文化財です。日露戦争の勝利を祝い「勝どきを上げる橋」という名が付きました。大きな船が通れるように中央部分を跳ね上げていましたが、昭和45年を最後に開かずの橋になってしまいました。この橋10億円ほどかけて手入れをすれば、今でも開閉可能だそうで、一時は「勝どき橋をあける会」が元気でしたが、最近、会のホームページが更新されていません。どうやら元気を失くしてしまったようです。

1940年、万博が左手先の晴海で開催されるはずでした。勝どき橋はメインゲートになる予定でしたが、日中戦争の影響で幻の万博になってしまいました。ちなみに、同じ年、東京オリンピックの開催も決まっていましたが、こちらも幻に終わりました。

右側の高層マンション群は石川島造船所の跡地に建てられた佃島の大川端リバーシティ21です。その前の橋は31本のケーブルで支えられた中央大橋。隅田川はフランスのセーヌ河と姉妹川という関係で、橋はフランスの会社による美しいデザインが採用されました。橋の左を真っすぐ行くと東京駅。すごく便利になりました。あの橋ができてから佃のマンションエリアは億ションエリアに変わりました。

この後はパート2に続きます。