CAM

谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』

谷崎潤一郎は「瘋癲老人日記」の中で、卯木督助(77歳)の日記の一節として、次のように述べています(原文カタカナをかなに変換)。


「・・・今の東京をこんな浅ましい乱脈な都会にしたのは誰の所業だ、みんな田舎者の、ぽっと出の、百姓上りの、昔の東京の好さを知らない政治家と称する人間共のしたことではないか。日本橋や、鎧橋や、築地橋や、柳橋の、あの綺麗だった河を、お歯黒溝のやうにしちまったのはみんな奴等ではないか。隅田川に白魚が泳いでた時代のあることを知らない奴等の仕種ではないか。死んでしまえば何処に埋められたって構はないやうなものだけれども、今の東京のやうな不愉快な、自分に何の因縁もなくなってしまつた土地に埋められるのはいやだ。・・・・・・さう云ふ点では何と云っても京都が一番安全である。・・・・兎に角京都に埋めて貰へば東京の人も始終遊びに来る。「あ、こゝにあの爺さんの墓があつたつけな」と、通りすがりに立ち寄つて線香の一本も手向けてくれる。」(19-139)


 これは、言うまでもなく谷崎自身の心情でしょうが、谷崎は昭和40(1965)年7月30日に79歳で亡くなり、京都市左京区鹿ヶ谷法然院に葬られています。


 「瘋癲老人日記」は昭和36年11月号から昭和37年5月号まで『中央公論』誌に発表され、昭和37年(1962)5月に中央公論社から刊行されたものですから、刊行時には、まだ日本橋は高速道路で覆われてはいなかったはずです。当時は、河川の汚染が最悪となっており、隅田川花火大会も、水質汚濁による臭害等により、昭和36年(1961)から昭和52年(1977)まで中断されています。

  昭和39年オリンピック直前の日本橋近辺の状況については、開高健が『ずばり東京』で描写していることは、既に、本ブログで紹介したとおりです。

開高健『ずばり東京』 by CAM | 中央区観光協会特派員ブログ (chuo-kanko.or.jp)

 谷崎潤一郎の昭和37年刊行の上記著書では、隅田川の水質汚染が嘆かれてはいるものの、高速道路設置による景観破壊については述べられていません。    谷崎潤一郎は昭和40年7月まで存命だったのですから、日本橋が高速道路で覆われたことは、最晩年にはご承知ではあったのでしょうが、はたして、その光景を現実に目にされたのでしょうか?


 『ふるさとは田舎侍に荒らされて昔の江戸の面影もなし』と詠んだ谷崎潤一郎、その晩年に、日本橋が高速道路で覆われる実景を見ておられれば、さぞかし嘆かれたことでしょうね。