はじめ

確定申告を終え、「新富座」の歴史を振り返る

既に中央区観光協会特派員ブログで紹介されているように、京橋税務署は建替工事が終了したことに伴い、令和2年12月14日に新庁舎へ移転。江戸歌舞伎「新富座」の跡地に戻ってきました。

〒104-8557 東京都中央区新富2 丁目6番1号

先日、その新庁舎に行って確定申告書を提出した後、建物の北側に設置された「新富座」についての説明版を読んだのですが、頭に入りません。そこで帰宅後、「新富座」の2度の移転と2度の改称の関係をまとめてみました。

強制と験かつぎの移転と改称

強制と験かつぎの移転と改称 確定申告を終え、「新富座」の歴史を振り返る

改めて調べてみると、「森田座」として始まり「守田座」を経て「新富座」と続いた歩みは、平坦なものではなかったようです。「森田座」の時代には、経営不振のため「河原崎屋」に代興行権を委ねることが多く、1843年に天保の改革の一環で強制的に木挽町から当時は辺鄙な猿若町(現在の台東区浅草6丁目)へ移転(1度目)させられた際、実際に引っ越したのは「森田座」でなく「河原崎座」でした。

その後1858年には「森の下に田んぼ」では陽当たりが悪く実りが悪い、「田を守る」に改めればきっとお客様の入りもよくなるに違いない、との験をかついで「森田座」から「守田座」に改称(1度目)しました。

明治政府からの圧力もあり、1872年に浅草から引っ越す際にはやはり「新しい富を求める」という験かつぎで、新富町に移転(2度目)。1875年には「新富座」に改称(2度目)しました。

黄金時代から売却へ

黄金時代から売却へ 確定申告を終え、「新富座」の歴史を振り返る

1878年に「新富座」はガス灯などを配備した近代劇場に生まれ変わり、九代目市川團十郎による活歴が行われるなど、明治時代中期の演劇改良運動の場となりました。

1888年には新設の「歌舞伎座」に対抗するため、「市村座」「中村座」「千歳座」と四座同盟を結成。両者の妥協が成立した後、「新富座」は「歌舞伎座」とともに明治の歌舞伎黄金時代を築きましたが、次第に多額の負債に圧迫されるようになり、1910年に松竹合名会社が買収(ちなみに、1913年には松竹が「歌舞伎座」の経営権も取得しています)。1923年の関東大震災で被災するとそのまま再建されず「新富座」は廃座となりました。

今回「新富座」の歴史を振り返ることで、興行というビジネスが持つシビアな一面を認識した次第です。

※「森田座・守田座・新富座」の定式幕は、左から「黒・柿色・萌葱色」の三色の引幕。現在、「歌舞伎座」をはじめとする多くの劇場で歌舞伎上演の際に使用される定式幕となっています。