桜やよい

月刊日本橋10月号「渋沢栄一日本橋に遺したもの」特集
ー徳川慶喜との絆は50年も続く!

井上探景画『江戸橋ヨリ鎧橋遠景』3枚絵 日本銀行貨幣博物館所蔵

今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の放送が12月26日に終了しました。この放送で渋沢栄一の生涯をより深く知るきっかけとなり、改めて明治維新から日本が近代国家に移る基盤を栄一の力なくして形成することはなかったと深く感じ取りました。

月刊日本橋10月号「渋沢栄一日本橋に残したもの」特集を参考文献を参考にして、「栄一の住居変遷を追ってみました!」にも徳川慶喜伝記を兜町洋館で10年かけて編纂・完成されていたことを記事にしています。

https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=2551

その基盤になった徳川慶喜との出会いがなかったら、栄一の歩む道も違っていたことに強い感銘を覚えました。特に、パリ万博同行の慶喜の強い押しがなかったらと栄一が思い描いた現在の日本の姿はなかったと杞憂してしまいます。

1888明治21年日本橋兜町以前住んでいた借地)に西洋館を辰野金吾設計・清水建設施により新築しました。その後、1901明治34年事務所、宿舎に使われていましたが、1923大正12年関東大震災で焼失してしまいました。

清水建設株式会社所蔵

清水建設株式会社所蔵 月刊日本橋10月号「渋沢栄一日本橋に遺したもの」特集
ー徳川慶喜との絆は50年も続く!

1917明治17年「徳川慶喜公伝」は完成しました。栄一が67歳から77歳の10年の歳月をかけて、長年の夢を実現させるには相当の覚悟が入りました。

慶喜が栄一をパリ万博に行かせたかった訳は弟の昭武に話したところでは「渋沢は面白いやつだが、攘夷、攘夷と言うから、フランスを見聞させてやろう」と思ったそうで、慶喜のイタズラ心でイテキ西洋嫌いの栄一がパリ万博に同行することが決まったのでした。

また、栄一の方も慶喜という人物を「慶喜公は一種変わった心根をもって居られたお方で、自分で自分を守る処をちゃんと守って居りさえすれば、世間がなんと言おうが、他人が何と非難をしょうが、そんなことには一向頓着せられなかったのである。世間が如何に誤解しても知る人は知ってくれるからという態度に出られる方である」と『実験論語処世談』の中で評しています。

旧幕臣が訪れても決して会おうとしなかった慶喜でありましたが、おそらく最後まで沈黙を守ろうとしていた固い決心を覆したことは、信頼する栄一から唯一の願いである「慶喜公自伝編纂」の話が持ち掛けられると、自分の存命中は公表しないことを条件に渋々引き受けたと言われています。

徳川慶喜60歳で1897明治30年静岡から転居ー東京‣豊島区巣鴨に1901明治34年までの4年間居住

徳川慶喜60歳で1897明治30年静岡から転居ー東京‣豊島区巣鴨に1901明治34年までの4年間居住 月刊日本橋10月号「渋沢栄一日本橋に遺したもの」特集
ー徳川慶喜との絆は50年も続く!

巣鴨駅からすぐの白山通り(旧中山道)です。4年間しか住まなかった理由は目の前をJR山手線日本鉄道豊島線巣鴨駅1903明治36年設置が決まったことを知ると、静かな生活を好んだ慶喜はすぐ騒音を嫌って文京区小日向邸に転居しました。

巣鴨駅近くの高岩寺とげぬき地蔵のある巣鴨商店街は「おばあちゃんの原宿」と呼ばれ、近年では若者や外国人観光客で賑わっています。江戸時代は染井吉野ソメイヨシノ発祥の地と知られ、多くの植木職人が住んでいました。駒込駅近くの「染井吉野桜記念公園」に「ソメイヨシノ桜発祥の地」の碑が建っています。

巣鴨の地元の人たちは、この慶喜邸に水戸の偕楽園を彷彿とさせる梅の木が沢山植えられていたので「ケイキさんの梅屋敷」と親しみを込めて呼んでいたそうです。敷地3,000坪建坪400坪の広大なお屋敷でした。

この頃1899明治32年62歳の慶喜は皇居に参内して明治天皇・皇后に拝謁して名誉を回復していました。

徳川慶喜64歳1901明治34年文京区小日向第六天町転居ー12年間居住1913大正2年没

徳川慶喜64歳1901明治34年文京区小日向第六天町転居ー12年間居住1913大正2年没 月刊日本橋10月号「渋沢栄一日本橋に遺したもの」特集
ー徳川慶喜との絆は50年も続く!
 月刊日本橋10月号「渋沢栄一日本橋に遺したもの」特集
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 月刊日本橋10月号「渋沢栄一日本橋に遺したもの」特集
ー徳川慶喜との絆は50年も続く!

国際仏教学院大学院大学文京区2丁目8-9に慶喜公の終焉の地の屋敷跡があります(Bーぐる文京区コミュニティバスー文京シビックセンター発ー春日駅目白台・小日向ルート・トッパン印刷前降車)新坂を春日通りに向かって歩くと、その坂に面しています)慶喜の生誕した後楽園とは近くです。都バスも通っています(5番春日駅ー春日2丁目)春日通りを後楽園方面に新坂を下って歩くことになります。

この辺りは閑静な住宅地でしたが、東京メトロ丸の内線の電車が地上を走っていました。慶喜が生きていたら、この地からまた引っ越していたのでしょうか?そう思い描くことも楽しいですね。

敷地3,000坪単価1,000坪の小日向邸は小石川区第六天町にありました。

慶喜64歳で1902明治35年公爵に叙せられ、公爵議員・貴族議員にもなりました。

慶喜はお酒も煙草も飲まれなかったそうで、多趣味(カメラによる写真撮影・釣り・顕微鏡・油絵・手芸刺繍)ばかりか、スポーツマン(弓道・狩猟・サイクリング)でもありました。栄一が一橋時代から財務係として、慶喜の資産活用・運用を行っていたために生活に困りませんでした。贅沢はしないで質素な生活を好み、華美な生活はしないことも栄一と共通した価値観を持っていたことも絆が強かった一因でもあったようです。

栄一64歳1904明治37年の時に危篤となり、慶喜も見舞いに飛鳥山邸に訪れ、手を握りしめて涙したと言われています。その甲斐あってか、奇跡的に回復したそうです。慶喜にとっても、3歳下の栄一に先に逝かれるわけにはいかなかったようです。

1913大正2年慶喜77歳で死去の際、葬儀総裁を務めました。

「徳川家康公は江戸幕府開府の役目を果たされ、私は閉府の責務を果たした」とまさに慶喜は弱体化した幕府の立て直しを諦め、どのように閉じようとかという大仕事をやり遂げられたのではと感じました。そのお陰で、江戸の100万人の人たちは無益な戦争から逃れ、明治政府へとスムーズに政権が移り、栄一が日本の近代化に貢献でき、慶喜への名誉回復のみならず、忠義を尽くしたことは栄一が驚くべき稀に見る逸材だったと確信しました。

徳川慶喜はなぜ谷中霊園に墓があるのでしょうか?
渋沢栄一の墓の向きはなぜ慶喜の墓の方を向いているのでしょうか?

徳川慶喜はなぜ谷中霊園に墓があるのでしょうか?
渋沢栄一の墓の向きはなぜ慶喜の墓の方を向いているのでしょうか? 月刊日本橋10月号「渋沢栄一日本橋に遺したもの」特集
ー徳川慶喜との絆は50年も続く!

谷中霊園・慶喜公の墓

 月刊日本橋10月号「渋沢栄一日本橋に遺したもの」特集
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ー徳川慶喜との絆は50年も続く!

谷中霊園にある栄一の墓

歴代徳川将軍14代までの墓は、交互に寛永寺か増上寺に埋葬されていました。

慶喜の墓は遺言によって明治天皇の恩顧に報いるために、神道に改宗したために神道の墓饅頭型の珍しい形態になっています。

栄一は慶喜を敬慕していましたので、慶喜の墓の方角に向かって墓を建てるように遺言しました。

死後の世界まで慶喜と栄一の絆は永遠に繋がっていることでしょう!

 

 

参考文献

「徳川慶喜最後の寵臣渋沢栄一そしてその一族の人びと」渋沢華子(渋沢栄一の孫)

月刊日本橋10月号「渋沢栄一日本橋に残したもの」特集