令和に生きる江戸の掟
~知られざる牢屋奉行・石出帯刀吉深の決断~
こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
私には、初めて中央区観光検定の勉強をした2017年の秋以来かれこれ5年間気になり続けていたことがありました。
それは、世襲制で伝馬町牢屋敷の牢屋奉行を務めた石出帯刀の社会的評価。
学生時代にフランスの世襲制の死刑執行人の家系・サンソン家について知り、比較的裕福な暮らしをする一方、他の人には理解しえない苦労があったことを学びました。
そこで、刑の執行権限こそないものの、間近で囚人たちと向き合う石出帯刀についてより詳しく知りたいと思うようになりました。
ようやくまとまった時間が確保でき参考文献を手に取ってみると、無機質で機械的に仕事をこなす役人ではなく、非常に人間味のある石出帯刀の姿が記録に残っていました。
今回は明暦の大火の際に石出帯刀を務めた吉深(よしみ/よしふか)に焦点を当てながら、令和に生きる江戸の掟や彼の別の顔に迫ります!
初代石出帯刀ってどんな人?
後に初代石出帯刀となる本田図書常政(ほんだずしょつねまさ)は、天正末頃(1590年前後)徳川家康に仕えていました。
常備兵力としての大御番所を任された際に「星池(ほしいけ)」の姓を与えられるも、旧住所の「石出」を名字として願い出て許された経緯を持ちます。
家康の江戸入府頃、各地で武田・北条の残党が盗賊化していたこともあり、家康が彼に「囚人を御するのは石出のような勇武の猛者でなければならぬ」と奉行を命じたのがこの役職の始まり。
元々は残党対策として設けられた役職だったようですね。
江戸伝馬町処刑場跡
禄高は三百俵で地位は町奉行所の与力に近く、牢屋同心50名(後に58名)、牢屋下男30名(後に38名)を配下とし、牢内の取り締まり、死刑執行への立ち会いなどを行っていました。
そのことから不浄役とされたため自ら登城を憚り、幕臣との交流はなかったそうです。
しかし、牢屋奉行に対するこうした見方は江戸中期以降に定着したもので、初期に偏見はなかったと言われています。
知ってびっくり!令和に生きる江戸の掟
時代とともに法律は改正を繰り返し今日に至っていますが、驚くべきことに、令和の法律にとある石出帯刀の時代の掟が色濃く残っています。
そう言われてもにわかに信じられませんよね?
その掟はちょうど365年前の明暦3年(1657年)、明暦の大火が発生した際のとある出来事を機に定められました。
この大火により現在の中央区の広範囲が炎に包まれ、伝馬町牢屋敷では火の手が迫りくる中、当時牢屋奉行を務めていた石出帯刀吉深が非常に大胆な火急の対策を講じました。
なんと、上司にあたる町奉行やさらに上の存在である老中の許可を得ず、独断で囚人を解き放った(「切り放ち」をした)のです!
その代わり、火が鎮まった際には浅草の善慶寺に参集するよう囚人に告げ、約束を守って戻ってきた者は減刑すること、逃亡したら雲の果てまで捜し、一族もろとも成敗することを宣言しました。
「地下から現れた牢屋敷の石垣」の案内板(十思公園)
囚人とはいえ同じ人間。焼け死にするのを目の当たりにすることは苦痛だったでしょう。
もし皆さんがこの石出帯刀の立場だったら、どのような決断を下しますか?
独断でも状況に応じて瞬時に柔軟に対応するべきか、いかなる時も上司の意見を仰ぎ従うべきか。
実に現代にも通じる難題です。
明暦の大火発生当時、伝馬町牢屋敷には120人余りの囚人が収監されていました。
「お咎めがあれば、わしが腹を切ればよい」と覚悟を決めた石出帯刀によって一時解放された囚人たちの中には、彼に合掌をして感謝する者もいたことが浅井了意による仮名草子『むさしあぶみ』から分かります。
『むさしあぶみ』は早稲田大学図書館の古典籍総合データベース上で公開されており、上巻のスキャンデータ(HTML・JPEG版、PDF版)13ページ目には、後ろで両手を縛られた人たちが牢屋敷から出され、合掌し、走り出す様子が描かれています。(興味深いのでぜひご覧ください!)
かつて伝馬町牢屋敷のあった十思公園
そのようにして牢屋敷から走り出した囚人たちは、隅田川をさかのぼって浅草方面へ逃れたそうです。
ところが、牢が破られたと勘違いした赤坂見付の番人によって門が閉じられ、日本橋方面からの避難民が行き場を失ってしまいます。
さらに、後方からくる群衆に押された人が堀へ落とされるなどし、浅草御門一帯だけで23000人余りの人が命を落とすという不測の事態に...。
3日過ぎてやっと鎮火し、1人か2人の逃亡者を除き囚人たちが善慶寺に集まりました。
石出帯刀は、獄中の未決囚の切り放ちは越権行為であることを承知し、厳しい処分が下されることを覚悟して自身の行為を上司に報告するとともに、戻ってきた囚人たちの減刑を願い出ました。
すると、当時将軍になったばかりの幼い家綱の補佐役を務める保科正之の計らいにより、石出帯刀へのお咎めはなし。
そればかりか、牢屋敷が類焼にさらされた際に切り放ちをすること、逃亡せずに戻れば減刑されることが慣例になりました!
この慣例は、8代将軍徳川吉宗が寛保2年(1742年)に編纂した「公事方御定書」の下巻にあたる「御定書百箇条」でも明文化されています。
後に吉田松陰も収監され、そばの処刑場で終焉を迎えました。
江戸時代には火事が多く、伝馬町牢屋敷は弘化元年(1844年)までに13回類焼しており、幕末の蘭学者・医者の高野長英のように火災の解きほどきを機に逃亡した者もいました。
囚人たちは「赤猫」と称して火災を待ち望み、中には自ら放火して脱獄を企てる者もいたそうです。
時代が下り、明治41年(1908年)には「監獄法」が公布されました。
法律と現状をすり合わせ、何度もの改正を経て平成17年(2005年)に「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」が施行されました。
監獄法にあった多くの条文が削除された一方、石出帯刀吉深の行いが先例となり、後に明文化・法令化された掟が今でも以下の通り残っています。
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(災害時の避難及び解放)
第八十三条 刑事施設の長は、地震、火災その他の災害に際し、刑事施設内において避難の方法がないときは、被収容者を適当な場所に護送しなければならない。
2 前項の場合において、被収容者を護送することができないときは、刑事施設の長は、その者を刑事施設から解放することができる。地震、火災その他の災害に際し、刑事施設の外にある被収容者を避難させるため適当な場所に護送することができない場合も、同様とする。
3 前項の規定により解放された者は、避難を必要とする状況がなくなった後速やかに、刑事施設又は刑事施設の長が指定した場所に出頭しなければならない。
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江戸時代には処刑場のあった大安楽寺
ちなみに出頭までの時間は、江戸時代には「3日以内」、明治時代の「監獄法」では「24時間以内」、今では「速やかに」と少しずつ変わってきています。
明暦の大火の際に、独断で行った切り放ちが365年後の現代にも適応されていることを知ったら、石出帯刀吉深はどう思うでしょう。
彼は、四方に格子を導入することで牢の風通しを良くしたり、身分に応じた牢を設けたりするなど、牢獄の環境改善にも尽力。
受刑者の人権について意識が高い人物だったようで、囚人たちから感謝されたことも多かったのではないかと思います。
では、一般的な社会的評価はどうだったのでしょうか。
石出帯刀吉深の意外な一面
元和元年(1615年)生まれの石出帯刀吉深(常軒)は、江戸初期を代表する学者・歌人でもありました。
牢屋奉行という本業の傍ら、30代~60代まで和歌書『机石鈔』などを書き残しています。
また、儒学者・軍学者の山鹿素行(やまがそこう)から忌部流(いんべりゅう)の神道を学び、それを儒学者・神道家の山崎闇斎(やまざきあんさい)に伝えました。
彼は、不浄役人などと言われ敬遠され、人から交際を絶たれるような人物ではなく、寧ろ文武両道に通じ、様々な後ろ盾を持っていました。
そのような社会的評価も多少影響し、彼が独断で行った切り放ちは認められたのかもしれませんね。
中央区に大いにゆかりのある彼に関する史跡「石出常軒の碑」が、足立区の千葉山西光院にあります。
その墓地には、彼の長男が書き残した父の事績を刻んだ碑が風化しながらも残されているので、足立区に足をのばした際には、このお寺を訪問し365年前の伝馬町牢屋敷に思いを馳せたいと思います。
参考文献・ウェブサイト
朝倉辰次『江戸牢獄:拷問実記』雄山閣,2003年.
櫻井悟史「斬首を伴う「死刑執行人」の配置に関する考察ー公事方御定書から旧刑法にいたるまで-」,『Core Ethics』 Vol. 5,2009年.https://www.r-gscefs.jp/pdf/ce05/ss02.pdf(2022年5月14日閲覧)
布施弥平治『伝馬町牢屋敷:エピソード刑罰史』人物往来社,1968年.
丹野顯『江戸の名奉行』新人物往来社,2008年.
早稲田大学図書館 古典籍総合データベース『むさしあぶみ』
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo01/wo01_03753/(2022年6月14日閲覧)