暑いので、歌川広重の「びくにはし雪中」に思いを馳せる

どうも、です。

連日の猛暑で外に出るのも億劫になる日々が続いていますが、皆さん体調を崩されたりしていませんでしょうか。

今回はそんな暑さに嫌気が差している方々へ、わずかばかりのを提供してみたいと思います。

紹介するのは歌川広重の代表的な浮世絵シリーズ『名所江戸百景』の「冬の景」より、中央区のある場所の様子を描いた一枚です。

『名所江戸百景』より「びくにはし雪中」

『名所江戸百景』より「びくにはし雪中」 暑いので、歌川広重の「びくにはし雪中」に思いを馳せる

なんとも涼しげ寒さすら感じさせるこちらの作品が「びくにはし雪中」。に覆われた町の様子を描いた作品です。(国立国会図書館デジタルコレクション 名所江戸百景 びくにはし雪中より引用)。

画面左手にある「山くじら」の看板が目に飛び込んできますが、「山くじら」とはイノシシ肉のこと。この看板は牡丹鍋を提供していた「尾張屋」の看板だと考えられています。獣肉を食べることは当時表向きには禁止されていましたが、クジラの一種と言い逃れていたようです。滋養強壮にも良いと考えられていたことから、庶民にも広く食されるようになっていました。

画面右手には「○やき 十三里」の看板が立っています。当時川越周辺で採れる甘藷(さつまいも)は人気があり、川越が江戸から十三里の場所にあることと、「栗(九里)より(四里)もうまい(九里+四里=十三里)」を掛けて、「十三里」といえばサツマイモを指すようになりました。これを丸焼き(○やき)にした、焼き芋の店が並んでいます。

そして肝心の「びくにはし(比丘尼橋)」が画面中央に描かれているわけですが、現在このような名前の橋は中央区内にありません。ではこの絵が描かれたのは何処だったのでしょうか?

京橋川に架かっていた「比丘尼橋」

京橋川に架かっていた「比丘尼橋」 暑いので、歌川広重の「びくにはし雪中」に思いを馳せる

この絵が描かれたとされる場所から同じようなアングルで現代の写真を撮ってみました。ここは外堀通り(都道405号)と東京高速道路が交わる場所。八重洲二丁目から銀座一丁目方面を眺める視点です。

東京高速道路が建設される以前、この下には京橋川が流れていました。つまり比丘尼橋とは京橋川と江戸城外堀が交わる場所にあった京橋川にかかる橋だったのです。

「びくにはし雪中」をもう一度よく見てみると、画面右側の奥には江戸城の石垣が描かれています。また、外堀沿いの通りの奥に見える櫓は、数寄屋橋付近にあったとされる火の見櫓と考えられます。

わずかに残る橋の痕跡

わずかに残る橋の痕跡 暑いので、歌川広重の「びくにはし雪中」に思いを馳せる

京橋川に架かっていた比丘尼橋は、関東大震災の復興事業で掛け替えられた際、地域住民の請願によって「城辺橋」に名前が変更されました。「比丘尼」は仏教における出家した女性、つまり尼のことを指しますが、江戸時代には尼の姿で売春を行う娼婦が現れ、この橋の近くに定住していたことから「比丘尼橋」という橋名が付いたと考えられています。あまり良くないイメージを持った橋名だったということです。

そんな城辺橋も昭和29〜34年(1954〜59年)の京橋川埋立事業によって姿を消しました。そんな中、京橋大根河岸通り沿いを歩いていると「城辺橋相互ビル」という形で橋名が残っているのを見つけました。橋の姿は微塵も残っていませんが、間違いなくここに橋があったんだと確信を与えてくれます。

この地に川があったこと、そして橋があったこと、さらに広重が「江戸で風情を感じる場所の一つ」として取り上げたことを知る人は数少ないかもしれません。説明されなければ通り過ぎていくだけの場所ですが、往時の人々にとっては特別な場所だったのでしょう。

これまで見過ごしてきた地にも、きっと様々な思いが宿っているんだろうということを改めて感じさせられた次第です。

30℃超えのとろけそうな路上から、160年以上前の雪をお届けしました。

アクセス

撮影地:中央区八重洲2丁目11−1付近