yaz

乃木希典(大将)は銀座に住んでいた

嘉永2年11月11日(1849年12月25日)、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(150石[7])の三男として、江戸の長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区六本木)に生まれ源三と命名されました。軍人として高名になった後には、「乃木大将」または「乃木将軍」と呼称されます。明治4年12月(1872年1月)、正七位に叙された乃木源三は、名を希典と改めます。明治7年(1874年)9月10日には陸軍卿伝令使となりましたが、陸軍卿(当時は山縣有朋)の秘書官または副官といった役割であり、まっすぐ帰宅することはほとんどなく、夜ごと遊興にふけり、山縣から説諭を受けるほどだったということです。

この時期に三十間堀の川船宿「大村屋」に足しげく通っていたのかもしれません。自宅から徒歩で5~6分の距離ですから。

明治29年10月14日、乃木は台湾総督に任じられ、台湾に赴任。日露戦争開戦の直前である明治37年(1904年)2月5日、動員令が下り、乃木は留守近衛師団長として復職しました。乃木が率いる第3軍は、第2軍に属していた第1師団および第11師団を基幹とする軍であり、その編成目的は旅順要塞の攻略でした。乃木はこの戦いで、ロシアの永久要塞を攻略しました。

第1回目の攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請に半ば押される形で強襲作戦となりました。乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となりました。明治38年(1905年)1月1日、要塞正面が突破され、予備兵力も無くなり、抵抗は不可能になった旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセル(ステッセリとも表記される)は、乃木に対し降伏書を送付し、これを受けて1月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落しました。

ステッセルとの秘話として、「ヴェーラ夫人が旅順の要塞で弾いたとされるピアノが、石川県の金沢学院大学に保存されています。旅順陥落に際してステッセルから乃木に贈呈したもので、旅順で最大の戦死者を出した金沢第九師団に譲られたと伝わっています。」

上の集合写真の中央が旅順要塞司令官のアナトーリイ・ステッセルです。

乃木希典は愚将と評価されたby 『坂の上の雲(司馬遼太郎)』

乃木希典は愚将と評価されたby 『坂の上の雲(司馬遼太郎)』 乃木希典(大将)は銀座に住んでいた

乃木希典は愚将であるという評判が第二次大戦後に流れましたが、これは司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の中で徹底的に「愚将」「無能」の烙印を押されたからでしょう。 

戦いというのは誤算の連続です。当初、主戦場はあくまでも満洲の東清鉄道の支線に位置する遼陽や沙河、黒溝台、奉天といった地で、旅順要塞は二の次と見られていました。ただ、旅順要塞を落としておかないと日本軍は南北から挟み撃ちを食らうということで、乃木に白羽の矢が立ったわけです。 

要塞攻撃の原則は「攻者3倍の兵力」といわれます。

つまり攻める側は守る側の3倍の兵力が要る。参謀本部は敵兵力を1万5千人、大砲数2百門と想定し、乃木軍に3個師団(約5万人)、大砲三百数十門を与えました。ところが、これが誤算で、敵兵力は4万8千人、大砲約640門。3分の1に見誤まりました。

本来ならばこちらは15万人、大砲も6百門以上ないと勝ち目はありません。5万人では惨敗以外にあり得ないということです。第1回総攻撃も第2回総攻撃も失敗します。にも拘(かかわ)らず、第3回総攻撃で遂に旅順要塞を落としたのです。 

「千番に一番の勝利」という言葉がありますが、旅順戦は「万番に一番」とも言うべき奇蹟の勝利に他なりません。 難攻不落の旅順要塞を乃木軍が制圧したことで、ロシア軍総司令官クロパトキンは真っ青になり、「これは人間業じゃない」と乃木軍を恐れます。 

日露陸戦の二大会戦は旅順戦と奉天会戦ですが、その勝利に最も貢献したのが乃木率いる第3軍なのです。ただ、旅順戦は死者約1万5千人、負傷者約6万人と膨大な犠牲を払いました。乃木は第3回総攻撃で次男を亡くしています。 しかし、乃木は「参謀本部が兵力をよこさなかったから」などとは一切口にせず、すべてを自分の責任と受け止め、

「私の指揮統率が至らないばかりに、陛下の赤子を旅順で多く死なせてしまいました。申し訳ございません」と涙ながらに明治天皇に奏上したのです。 

「責任を取らせてくださいませ。私に割腹自決することをお許しくださいませ」。

これに対して明治天皇は「おまえの気持ちはよく分かるが、おまえが死ぬのはわしの後にせよ」となだめます。乃木はその後、学習院長を務め、大正元年(1912年)の明治天皇の大喪の日に自ら命を絶ちました。 享年63歳。

 乃木希典(大将)は銀座に住んでいた

大正元年9月13日、大喪儀の夜、午後8時に号砲が轟き、5頭の牛にひかれた明治天皇の霊轜(れいじ)車が
皇居車寄から青山練兵場の葬場殿に向けて出発しました。そのとき、乃木は妻の静子とともに自刃しました。

勝鬨橋は、明治の時代より幾度となく架設計画がありました。 1905(明治38年)1月18日に日露戦争における旅順陥落祝勝記念として有志により築地と月島を結ぶ「勝鬨の渡し」が設置されました。昭和15年万博開催(実際には中止となりましたが)を記念して架橋した橋は、 この渡しに由来して「勝鬨橋」と命名されました。乃木将軍の旅順要塞陥落がなければ、この橋は「勝鬨橋」とは命名されませんでした。

乃木希典が通っていた「大村屋」がいつ出来ていつなくなったのかその由来は全く分かっていません。京橋図書館に代わる「ほんのもり」が開館したら相談に行こうと思っていますが、以前のように話ができるのか心配です。