月島海水浴場 一考察
豊海埠頭の先端からの写真です。左は2022年2月に閉館した晴海客船ターミナル、中央はお台場のフジテレビ、右側はレインボーブリッジです。
私すっとこどっこいは、高校三年の夏休み、勉強づけ?でどこにも行かず、急に磯の香りを嗅ぎたくなります。と言って勉強疲れ?で暑い夏の混雑電車に揺られて湘南に行く気もせず、日曜日にほとんど人がいない豊海へ自転車で行き半日ボーっとしていました。晴海ふ頭公園は出来た頃ですが客船ターミナルやフジテレビ、レインボーブリッジはありません。油の臭いの方が強いのですが、うっすらと秋の気配と潮の香りがしていました。
友達のお父さんから勝どきの海水浴場で泳いだという話を聞いたことがありました。その時、この辺でも泳げたんだと汚い海を見つめていました。
明治になり初代陸軍軍医総督の松本良順は牛乳の飲用や温泉入浴法と共に海水浴を奨励します。実父佐藤泰然は順天堂の創始者です。漁業関係者を説得し、大磯海岸に海水浴場を開き医療効果を説きます。医学界の最高権威者が奨励した海水浴が一般にも広まります。
東京湾内でも1981年(明治24)に大森海水浴場が開設されます。当時の場所とは違いますが大森ふるさとの浜辺公園には当時の海水浴場を再現した砂浜があります。
1902年(明治35)には穴守海水浴場が、1909年(明治42)は羽田海水浴場も開設です。
この写真は京浜急行の大森海岸駅と穴守稲荷駅です。この先が羽田です。今はずっと先まで陸地があり駅周辺に海水浴場があった気配はありませんでした。
1981年(明治24)に勝どきの渡しが設置されます。月島の発展に伴い隅田川の往来の足が不足する現状に、京橋區の有志が設置し東京市に寄付したそうです。
上記写真は勝どき橋の築地側、勝どきの渡しの石碑横にある月島側の渡船場の写真です。月島西河岸通九丁目(現在の勝どき1丁目)です。
東京湾は遠浅で大型船の着岸が難しかった為、底を掘りつつ掘った土を盛り埋立てを進め、1913年(大正2)に月島三号地が完成します。この頃にそのような技術や機械があったことに驚きます。
1917年(大正6)月島三号地(現在の勝どき5、6丁目)に月島海水浴場がオープンします。
写真は現在の勝どき5、6丁目中央付近。埋立て後、最初に浜があったのはこの辺だと思います。
本の森ちゅうおうで見た ”jr中央区文化・歴史ずかん” には
「勝どき5、6丁目の先がまだ海だったころ、そこに月島海水浴場ができました。海の家のような小屋が数多くあり、その数軒は東京では初の女子部で、風呂やきちんとした更衣室、食堂がありました。」
と載っています。
”中央区女性史 いくつもの橋を渡って” には1919年(大正8)10月に「築地活版所の職工500余人が月島海岸に集合して協議ストライキにむかった」と記述があります。
”隅田川とその両岸” を本の森ちゅうおうで見ました。著者は豊島寛彰。明治生まれの人です。
勝どきの渡しを利用して月島海水浴場によく来たようです。「築地の波除神社の脇から渡船場へ行き、手漕ぎ船で築地川から隅田川へ出る。風の強い日は蒸気船に曳航されて月島西河岸へ渡った」そうです。「右に折れて新島橋を渡ると月島三号地で、よしず張りの囲いと色とりどりの幟が目に留まり海水浴気分が高まった」そうです。「泳いだ帰りに渡し舟を待つ間、新島橋のたもとの店で友達3人でかき氷の大食い競争をして、13杯食べたが14杯の友達に負けた」と書いています。当時のかき氷は下に蜜を入れ上に氷をかけるもので、食べるより飲むものだったと思います。すっとこどっこいも大食いですがかき氷は2杯めで頭痛がするので勝てなかったと思います。
女子部のあった月島海水浴場は水質の悪化などでわずか3年(1917~1919)で閉鎖と ”Jr中央区文化・歴史ずかん” には書かれますが、調べるといろいろ海水浴場にまつわる話がありました。
写真は月島二号地、現在の勝どき3丁目の隅田川添いの公園です。
本の森ちゅうおうで見た ”中央区年表 大正世相編” に載った記事では
1921年(大正10)7月10日 月島二号地に市設水泳場が開場。新聞に小屋の写真が載る。
7月24日 市設水泳場は安くて種々の施設があり、開場以来18000余人が訪れ、付近の私設水泳場がさびれたと苦情が出た。
1922年(大正11)5月30日 府会議員を代表に付近の住民から、廃止された月島三号地で水泳場許可の陳情が出た。
6月8日 月島の公私水泳場が12、3か所は設置される見込み。
7月2日 大日本水泳道場や向井流、大竹流道場ほか20数軒の小屋が出ていて、跳台や更衣室、ブイ、板子の設備を設けてお客を待つ。
と書かれています。
そして7月29日には 東京市衛生試験所の、河川衛生試験を行った結果が記事に載り、隅田川河口付近の遊泳は極めて危険と警告された。と載っています。
写真の岩場は月島三号地今の勝どき5丁目の隅田川側です。対岸は浜離宮です。この岩が大正期や昭和初期にあったものか戦後に積まれたものかはわかりません。
本の森ちゅうおうの ”中央区の昔を語る” で諸先輩方が海水浴について、お話されています。
参加者は明治生まれがお一人、月島編も勝どき豊海編も晴海編も大正、昭和生まれの方々の記憶です。
最初に出来た月島海水浴場は1919年(大正9)には閉鎖されます。そこは今イメージする砂浜とは違うようですが岩場では無かったみたいです。先の豊海方向へどんどん埋立てが進みます。
今の勝どき3丁目と勝どき5丁目の隅田川沿いは資材置き場で、大小の鉄管が積んであったようです。その先に小屋を出して海の家を営む人達がいました。釣具屋が3軒あり夏になるとその奥が海水浴場だったと言う人もいます。岸壁から階段を降り岩場から海に入ったようです。監視員を月島の人たちがやり、月島の子供達で泳げない子はいなかったと言う人もいます。
晴海編で証言した人の話では、昭和10年頃、勝どきに行き、下水管置き場の先によしず張りで作ってあった海の家で一日中遊んで五銭か十銭だったそうです。
現在の築地大橋から見た月島三号地です。大きなビルや倉庫が並んでいます。何もない頃は隅田川に沿って角を出れば前方にお台場が見えたはずです。
”中央区の昔を語る” で大正末生まれの方が小学生4年から6年まで遠泳の授業で、月島三号地からお台場まで毎年遠泳で往復したと語ります。この辺りに YS とか 天狗 とかの名前の小屋が7、8軒出ていたとの証言者もいます。
”東京下町 新富育ち” の著者 田島ふみ子も 弟が白いふんどしで遠泳をしたと触れています。昭和初期の話で彼は京橋小学校の生徒と思われます。
10月にほぼ開通した晴海緑道公園を通り、晴海の先端、閉館した晴海ターミナルの写真です。
1931年(昭和6)埋立てが完成した月島四号地が今の晴海地区です。2年後に東京市庁舎の移転が決議されますが、立地条件の悪さ、不便さから否決されました。
埋立て完成後、しばらくは何も無かったようです。
”中央区の昔を語る” の晴海編では大正生まれの人が3軒の海の家があったと証言しています。
1932年(昭和7)に国民新聞の附録で配られた ”大東京之鳥瞰図” の地図には出来たばかりの陸地のお台場側に海水浴場を表わす、赤い三角の小旗の線が描かれています。
東京オリンピック・パラリンピック選手村跡地で街づくりされているタウンネーム、晴海フラッグの写真です。
佃の高層マンションから始まり、月島の開発、特に晴海地区の変貌には目を見張る思いです。交通手段もBRTバスなど更に改善されてより発展する事でしょう。晴海緑道公園は今回初めて歩きました。晴れた日でしたので「いつも晴れた海を望みたい」と希望を込めて名付けられた晴海を満喫しました。
中央区に海水浴場があったという事実。
そして衛生上、遊泳が禁止された事実。
今、隅田川でユリカモメやサギ、カワウやカモを見るとすっとこどっこいの子供時代とは全然違う川になったのは実感出来ます。
いつの日か、再び中央区で海水浴が出来る日がくることを待ちたいと思い、このブログは完結です。