『江戸名所図会』から見えてくる中央区 鎧之渡編
「茅場町牧野家の後を云、此所より小網町への舟渡をしか唱えたり。往古は大江なりしとなり。里諺に云、永承年間、源義家朝臣奥州征伐の時、此所より下総國へ渡らんとす、時に暴風吹発し、逆浪天を浸し、既に其船覆らんとす、義家朝臣鎧一領をとって、海中に投じ龍神に手向て、風波の難をなからしめん事を祈請す、遂いにつゝがなく下総国に着岸ありしより、此の所を鎧が淵と呼べりとなり。後略 」
「鎧之渡」『江戸名所図会』国立国会図書館デジタルコレクションより
鎧の渡し跡
『江戸名所図会』には平安時代に奥州征伐に向かう源義家がここで暴風雨にあい、鎧一領を海中に投じ、龍神に祈ったとの言い伝えがこの地名の由来にもなっているとの記載があります。
小網町
絵図を見ますと対岸の小網町側は蔵が立ち並んでいますが、現在ではビル街となっております。蔵の屋号を表すロゴマークが気になります。絵図には凧がたくさん描かれています。お正月の絵なのでしょうか?
石垣
この写真からもわかる通り、現在、鎧橋のたもとには古い石垣が残されています。私が以前日本橋川の遊覧船に乗った時にガイドさん曰く「江戸時代後期のもの」と言っていました。少なくとも明治5年に鎧橋は架橋されているので、下部の石垣はかなり古いものと考えられます。それから写真からもわかる通り、日本橋川が鎧の渡付近で微妙に曲がっているのですが、現在でも茅場町側に出張り部分を確認することができました。
人工物?
写真からもわかるように石垣には「人工物」が埋め込まれているところがあります。文字は確認できるのですが、何と書いてあるのか判別できませんでた。(写真:茶色部分)中途半端なブログになってしまいましたが、詳しいお方が、いらっしゃいましたらご教示をお願いいたします。