常磐橋、常盤橋、そして新常盤橋
日本銀行の西側に「ときわ橋」という、日本橋川を渡す歩行者用の石橋があります。漢字で書くと「常磐橋」。その常磐橋の一つ下流には、発音は同じく「ときわ橋」という橋があり、こちらの橋は、「常盤橋」と書きます。さらに、常磐橋の一つ上流には、「新ときわ橋」という橋があり、こちらの橋は、「新常盤橋」と書きます。「常磐」と「常盤」。ややこしいですね。
常磐橋
親柱には、「常磐橋」の文字が刻まれています
一つ下流の橋は、「常盤橋」
一つ上流の橋は、「新常盤橋」
常磐橋は、かつての江戸城の外郭正門であった「常盤橋御門」に架けられた橋です。現在の常磐橋は、明治に入って解体された小石川御門の石垣を使って、明治十年(1877年)に造られたもの。橋の名に、「石」の「常磐」を用いたのは、「皿」の「常盤」は割れて縁起が悪いからと言われています。ただ、門の方は「常盤」なのに、橋だけが「常磐」なのは、なんとなく腑に落ちません。私は、いずれかの「ときわ」が誤字で、理由は後付けだったのではないかと疑っています。どなたか、裏付けとなる史料を御存知であれば、ぜひ教えていただきたいと思います。
ちなみに、「ときわばし御門」を古地図で確認すると、尾張屋版切絵図「御曲輪内大名小路絵図(嘉永二年/1849年)」には「常盤橋御門」と記されていますが、「日本橋北内神田両国浜町明細絵図(嘉永三年/1850年)」には「常磐橋御門」と記されています。一方、近江屋版切絵図「御大名小路辰之口辺図(嘉永二年/1849年)」「日本橋北神田辺之絵図(嘉永三年/1850年)」には共に「常磐橋御門」と記されています。
常磐橋東詰には、「日本橋川常盤橋防災船着場」があります。常磐橋を中央区側から千代田区側に渡った先には、「史蹟常盤橋門阯」の石碑があり、その先は常盤橋御門跡に整備された、「常盤橋公園」です。常盤橋公園には、常盤橋御門が置かれた当時の石垣が残されているほか、次の一万円札の顔である、渋沢栄一翁の銅像が立っています。
船着場は、「常盤橋」
石碑も、「常盤橋」
公園も、「常盤橋」
常盤橋公園には、渋沢栄一翁の銅像が立っています
時代小説の中では、常磐橋(作品内では常盤橋)は、藤沢周平著、用心棒日月抄(新潮社)の中で登場しています。主人公・青江又八郎は、常盤橋御門内に屋敷を構える、老中小笠原佐渡守の用心棒を請け負います。又八郎は、それとは別に、佐渡守が人目を忍んで出掛ける理由を浮気だとにらむ、さる女性から、佐渡守の浮気を暴くように依頼されます。果たして、佐渡守が出掛ける理由は何なのか?