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関東大震災から100年 「復興小学校」にこめられた願いとは

100年前の先進的な学校建築は今も魅力を放ち続ける(中央区立泰明小学校)

東京の人口の四分の三に上る170万人が被災した関東大震災。「大風呂敷」の異名をとった内務大臣・後藤新平による陣頭指揮の下、未曽有の惨状から立ち上がるべく、世界にもまれな規模とスピードで数々の復興事業が実現しました。道路、区画整理、橋梁、公園、そして忘れてならないのが小学校の建設……。

洒落たカフェやブティックが居並ぶ銀座・みゆき通りを西に向かうと、緑のツタがアーチ窓の連なる壁面を覆う建物が右手に現れます。1929年(昭和4年)に完成したこの中央区立泰明小学校は、当時、東京市内に建てられた「復興小学校」の一つ。全部で117校が生まれたものの、今も中央区内に当時の姿をとどめる現役小学校は、ほかに日本橋本石町の区立常盤小学校が残るのみという、希少な存在です。(共に東京都選定歴史的建造物)

 

 関東大震災から100年 「復興小学校」にこめられた願いとは

数寄屋橋公園から木立越しに講堂を見る

一連の復興小学校の設計は、ごく初期の校舎を除いて当時の東京市が担当。鉄筋コンクリート造り3階建て、スチーム暖房、水洗トイレの採用など、当時としては画期的な構造・設備を取り入れました。土地が狭く、遊び場も十分とは言えない都心校舎の悪条件を跳ね返そうと、多くの小学校に隣接して「復興小公園」も配置。非常の折には近隣住民の避難場所にも、との構想には、被災体験から学んだ知恵が垣間見えます。

ウンチクはほどほどにして、いざ、泰明小学校校長の荒川比呂美さんが待つ校内へ――。玄関に立つと、まず、シャープな筋目が並ぶ庇(ひさし)や柱の幾何学的な意匠に目を奪われます。復興小学校の総合プランを練り上げた東京市の専門家は、子どもの心理や教育目的に配慮した環境整備が大切だと考え、校舎の美観をも重視したとのこと。デザイン面では、当時はやったドイツ表現主義と呼ぶ芸術思潮の影響か、その特徴の一つであるカーブを多用した造形が、この校舎でも随所にみられます。

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幾何学的な造形が印象的な泰明小学校の玄関

荒川さんの案内で、子どもたちが戸外授業に出掛けた3階の空き教室を覗くと、天井に届かんばかりのアーチ窓の効果か、照明いらずの明るさ。これなら窓から一番遠い机の子にも青空が覗けることでしょう。理科室もまた、高い半円形の窓が並ぶ開放的な空間。かつて市の設計担当者の間では、行儀作法を教える畳敷きの「作法室」を作るべきか、科学の時代に沿った「理科室」を優先するべきかの激しい論戦があったそうです。今に残る校内の設備からは、当時の関係者たちの「教育観」が読み取れるかもしれません。

 

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理科室の採光にも配慮が

「一般的には講堂と体育館を兼ねるケースが多いようですが」。こう言いながら荒川さんがちょっと誇らしげに見せてくれたのが、教室棟の先に作られた馬蹄形の広い施設。1-2階部分はバスケットボールのゴール台や跳び箱が並ぶ吹き抜けの屋内体操場ですが、3階部分の扉を開けると——深紅のカーテンが優雅に下がる舞台に、ピアノをはじめ様々な楽器が並ぶ別世界に。「地域に開かれた教育施設」とは復興小学校の重要な理念の一つですが、ここには銀座の街の人々も講演や音楽を聴きに集ったのでしょうか。

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街中の劇場も顔負けの優雅な講堂

昔の卒業生が思い出を綴った文章を読ませてもらうと、こんな主旨の言葉がありました。「ガラス張り天井の図画室は光の調節もできる素晴らしいアトリエで、図画が嫌いな子どもでもここに来れば、何か描いてみようという気になる…」。もっとも、現在、在籍中の子どもたちにすれば、工夫をこらした設備の数々も、おそらくは当たり前の日常。100年前の災禍も、それを乗り越えようと先人たちが校舎の設計に込めた理想も、十分理解するのはまだまだ先の事でしょう。

 

だからこそ荒川さんは、こう話しています。「機会をとらえては子どもたちが泰明の歴史に触れる機会を作っているんですよ」。

 

 関東大震災から100年 「復興小学校」にこめられた願いとは

リズミカルなアーチ窓が目を引く常盤小学校

ところで区内には25の復興小学校が作られましたが、大半が廃校や建て替えで姿を消し、旧十思小学校のように外観はほぼ昔のままの建物も、用途が変わってしまいました。現役として残るもう1つの学校が、日本銀行本店や三井本館に程近い常盤小学校ですが、こちらも美しいアーチ窓の配列から一目で復興期のそれと分かるたたずまい。ミシミシと音の鳴る板張りの廊下に、ペンキの塗り跡も年季が感じられる壁の腰板、配管むき出しの天井部分など、レトロ感たっぷりの校内は、ほのかな品格と温もりを今に伝えています。

 

「関係者を案内すると、この階段のカーブした手すりの感じがいいと、よく言われます」と話すのは、校長の浮津健史さん。ジグザグの階段の手すりは、黒っぽい石造りの天辺にだけ何故か白いペンキが塗られており、先端部分は滑らかな円柱のよう。踊り場の壁面の隅もゆるく丸味を持たせていて、柔らかな印象を与えています。

 関東大震災から100年 「復興小学校」にこめられた願いとは

石造りの冷たさを感じさせない階段の周辺

多分、これは見栄えを意識しただけではなく、子どもたちのスムーズな動きを促す、いわば安全面の配慮でもあるのでしょう。復興小学校設計に当たっては、言うまでもなく安全性も大きな柱となっていて、いざという時は子どもたちが3分以内に避難できるように階段室を配置することなども求められたそうですから。

 

さらに、この校舎で歴史を感じるのは、教室で先生が立つ「教壇」の存在。学校によっては教える側の“上から目線”の象徴として、教壇を設けることに否定的な声もあったようですが、時代の遺物として興味をそそられます。

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昔の名残の教壇は思ったより小さい

実は、現校長の浮津さんは、前任地が泰明小学校で、中央区内に残る2つの復興小学校の校長を歴任したキャリアの持ち主。これらの学校に関して、最近よく耳にするのが、卒業生たちからの、かつて学んだ教室で同窓会を開きたい、という声だそうです。「卒業後、何年か経って、そういえばあの教室って良かったなあ、と思ってくれたら」――。校長先生の希望が叶うのも、きっと時間の問題でしょう。

 

▽主な参考資料

「関東大震災がつくった東京」武村雅之 中公選書

「関東大震災と『復興小学校』」小林正泰 勁草書房

「日本の近代建築(下)大正・昭和篇」藤森照信 岩波新書

「『帝都復興史』を読む」松葉一清 新潮社