New River

New River の夏休み
~瀬戸内海を旅して来ました!~

 

「新川」を起点に特派員活動をしている「New River」です。

残暑が続いていますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。私はこの夏(8月20~22日)、瀬戸内海(広島県)を旅して来ました。

旅のコースは、初日は新幹線で広島駅へ向かい、広島駅でレンタカーを借り、呉市を経由して瀬戸内海に浮かぶ大崎上島(おおさきかみじま、豊田郡大崎上島町)という島で宿泊。2日目は第2回ブログで取材をさせていただいた今田商店さんのご本家にあたる今田酒造本店さん(東広島市安芸津町)を訪ね、その後、尾道市を経由して鞆の浦(とものうら、福山市鞆町)へ移動、当地で宿泊。翌日の最終日は朝鮮通信使が宿泊した福禅寺・対潮楼(ふくぜんじ・たいちょうろう)を見学し、岡山駅から新幹線で帰京するという、2泊3日の旅でした。

ということで、そろそろ秋の声が聞かれる季節となりますが、今回のブログは「New River の夏休み ~瀬戸内海を旅して来ました!~」と題して、今回の旅で訪れた “中央区にゆかりのある場所”第2回ブログおよび「歩いてわかる中央区ものしり百科」に出ている項目に関連のある場所)をご紹介したいと思います。

 

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~瀬戸内海を旅して来ました!~

旅のコースです。①~⑤の順に旅しました。地図は、国土地理院ウェブサイト「地理院地図 / GSI Maps|国土地理院」を使用し、同図にコメントを付けて掲載しました。

今田酒造本店で「富久長」を育んだテロワールと酒造りの歴史を感じる!

今田酒造本店で「富久長」を育んだテロワールと酒造りの歴史を感じる! New River の夏休み
~瀬戸内海を旅して来ました!~

8月21日、第2回ブログで取材をさせていただいた新川の今田商店さんのご本家にあたる今田酒造本店さん(東広島市安芸津町三津3734)を訪ね、社長であり杜氏(とうじ)でもある今田美穂さんにお会いすることができました。

<テロワール>

今田酒造本店さんは、瀬戸内海の素晴らしい景観が広がる三津湾(みつわん)に面した安芸津町(あきつちょう)にあり、その美酒と美観は「酒のよいのと景色に惚れて急ぐ旅路を三津泊り」と三津小唄にも詠われています。

この辺りは、山と海が近接し、半島状に張り出した山々に降った雨が地中に染み込み、海の間際で湧出するので、日本酒造りに欠かせない良質な水を得ることができます。

また、良質な水と並び重要な原料である米は、広島県北部に位置する安芸高田市(あきたかたし)で契約栽培されている八反草(はったんそう)を使用しています。

さらに、穏やかで美しい三津湾は、植物性プランクトンを豊富に含んだ水が山々から河川となって流れ込み、昔からかきの養殖も盛んです。

今田酒造本店さんのフラッグシップである「富久長」は、温暖な瀬戸内海性気候の下、このような風土、テロワールで育まれたお酒でした!

 

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(左上)穏やかで美しい三津湾。遠くにかきを養殖している筏(いかだ)も見えます。

(左下)酒蔵入口に置かれた富久長のラインナップ。

(右)社長であり杜氏でもある今田美穂さん。

美穂さんは「カンパイ!日本酒に恋した女たち」(2019年に公開された日本酒ドキュメンタリー映画)に出演し、英国BBC放送が毎年発表する、世界の人々に感動や影響を与えた「今年の100人の女性」に選ばれました(2020年11月26日、中国新聞)。

後ろの煙突は1920年(大正9年)に地元のレンガ製造工場で造られた酒造用の煙突です。

 

<酒造りの歴史>

安芸津・三津の酒造りの歴史を感じることができるということで、美穂さんに勧められ、榊山八幡(さかきやまはちまん)神社に行って来ました。

榊山八幡神社は、酒造りゆかりの神社で、境内には「吟醸酒の父」と呼ばれている、三浦仙三郎(みうらせんざぶろう)翁(1847年(弘化4年)~1908年(明治41年))の銅像があります。仙三郎翁は、酒造りには向いていないと思われていたこの地の軟水で酒を醸す「軟水醸造法」を発明し、広島の酒造りの基礎を築きました。

この地は、江戸時代には広島藩の米蔵が置かれ、当時から酒造業が盛んで、明治以降、広島杜氏を多く輩出し、酒造業で栄えました。そのため、神社の造営に当たっては、酒造関係者の尽力が大きく、本殿正面に石造りの酒樽が配置されているなど、多くのお酒に関する寄進物があります。

※ 榊山八幡神社境内にある説明板等を参考に記載。

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(左)榊山八幡神社の本殿正面には石造りの酒樽があります。

(右)境内には三浦仙三郎翁の銅像があります。

 

<安芸津町>

広島県東広島市の南部に位置し、南は大崎上島町などを望む約16kmの海岸線で瀬戸内海に面しています。「安芸の良い津(港)」という意味を込め、1943年(昭和18年)に賀茂郡御津町(かもぐんみつちょう)と早田原村(はやたわらむら)、豊田郡木谷村(とよたぐんきだにむら)が合併し、「安芸津町」になったと言われています。

※ 安芸津町観光協会ホームページ https://akitsu-kankou.jp/ より引用。

朝鮮通信使が「日東第一形勝」と賞賛した鞆の浦

朝鮮通信使が「日東第一形勝」と賞賛した鞆の浦 New River の夏休み
~瀬戸内海を旅して来ました!~

 

今田酒造本店さんを訪ねた後、朝鮮通信使も立ち寄ったという、鞆の浦(福山市鞆町(ともちょう))を訪れました(8月21~22日)。

<歴史の舞台となり、風光明媚で美しい鞆の浦>

鞆の浦は、瀬戸内海のちょうど真ん中に位置し、満ち潮になると東西から潮の流れが鞆の浦へ流れ込んでぶつかり、引き潮になると鞆の浦を境にして潮の流れが東西に流れ出ていくことから、古くから潮の満ち引きを待つ船が多く集まり、「潮待ちの港」として繁栄しました。

江戸時代、1672年(寛文12年)、河村瑞賢(かわむらずいけん、1618年(元和4年)~1699年(元禄12年)、第1回ブログ参照)により西廻り航路が整備されると、北前船の寄港地としても栄え、朝鮮通信使も幕府の慶賀などのために度々寄港することになりました。

第8回通信使(1711年(正徳元年))の李邦彦(イバンホン)は、「福禅寺(ふくぜんじ)」(950年頃(天暦年間)、空也(くうや)上人によって創建)に隣接する客殿(1690年頃(元禄年間)創建)からの景色を「日東第一形勝(にっとうだいいちけいしょう)」(日本で一番美しい景勝地)と賞賛し、第10回通信使(1748年(延享5年))の洪景海(ホンケヒ)は、その客殿を「対潮楼(たいちょうろう)」と命名し、息子に書を残させました。

また、朝鮮通信使とともに中央区にゆかりのある、十返舎一九(じっぺんしゃいっく、1765年(明和2年)~1831年(天保2年))は、その景色を「厳島参詣膝栗毛(いつくしまさんけいひざくりげ)」の中で「青畳 敷きたるよふな 備後沖 居ながら拝む 神のめぐみに」(青々とした新しい畳を敷き詰めたような穏やかな海)と詠んでいます。

このように、歴史の舞台となり、風光明媚で美しい鞆の浦の景観は、1925年(大正14年)に「鞆公園(ともこうえん)」として国の名勝に指定され、1934年(昭和9年)には「瀬戸内海国立公園」として日本で最初の国立公園に指定されました。そして、さらに1994年(平成6年)には、福禅寺境内が「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定され、2017年(平成29年)には、福禅寺・対潮楼に残る朝鮮通信使関係史料6点が「朝鮮通信使に関する記録」としてユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に登録されました。

<朝鮮通信使とは>

朝鮮通信使は、室町時代から江戸時代にかけて朝鮮から日本へ派遣された外交使節団です。通信使とは「「信(よしみ)」を「通(かよ)」わす(友好を深める)使者」という意味があり、通信使には外交課題を解決する役割がありました。

江戸時代に入ると、徳川家康は幕府の支配の安定と権威を高めることを目的に、朝鮮通信使の再開を望んだことから、1607年 (慶長12年)から再び朝鮮通信使が派遣されるようになり、1811年(文化8年)までの約200年の間に計12回の派遣があったと言われています 。

 

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(上)福禅寺には、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に登録された「朝鮮通信使に関する記録」が展示されています。

(下)境内には「朝鮮通信使 迎賓館」と書かれた看板がありました。

 

※ 小西聖一「朝鮮通信使がやってくる」理論社(2023年2月)、辛基秀・仲尾宏「図説・朝鮮通信使の旅」明石書店(2000年8月)、広島県公式ホームページ(8 鎖国下の外交とひろしま ~朝鮮通信使~)、福山市ホームページ(ふくやま観光・魅力サイト「えっと福山」2023)等を参考に記載。

「歩いてわかる中央区ものしり百科」に出ている朝鮮通信使等について

瀬戸内海の “中央区にゆかりのある場所” をご紹介した今回のブログですが、改めて朝鮮通信使十返舎一九について、「歩いてわかる中央区ものしり百科」に出ている箇所を確認しておきたいと思います。

<朝鮮通信使>

まずは、朝鮮通信使です。「歩いてわかる中央区ものしり百科」のP.57、「芝口御門跡」の項で以下のように出ています。朝鮮通信使の一行は芝口御門を通って江戸市中へ入ったのですね。

【芝口御門跡】

1710年(宝永7年)、朝鮮通信使の江戸参府に際してわが国の威光を示すため、新橋の北詰に枡形門(ますがたもん)が建造されました。この門は「芝口御門(しばぐちごもん)」と呼ばれ、新橋は芝口橋と一時改称されました。しかし、1724年(享保9年)に消失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋という旧称に戻りました。跡地に立つ記念の石碑には、門の意匠を施した銅板が埋め込まれています。

 

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(上)「芝口御門」の跡地に立つ記念の石碑と案内板(銀座8-10-8)。

(下)「芝口御門」の模型(1983年(昭和58年)10月製作)。当時の枡形門の形がよくわかります。(提供:中央区立京橋図書館)

 

<十返舎一九>

次に、十返舎一九です。「歩いてわかる中央区ものしり百科」のP.121、「十返舎一九墓」の項で以下のように出ています。「東海道中膝栗毛」を書き上げた後、各地の道中膝栗毛を書き続けたとありますね。「厳島参詣膝栗毛」もこのときに書かれたものだと思われます。

【十返舎一九墓】

江戸時代の大ベストセラー「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九(じっぺんしゃいっく、1765年(明和2年)~1831年(天保2年))の墓は、真円山東陽院(しんえんざんとうよういん)にあります。駿府(現在の静岡県)の武家に生まれた一九は、近松余七(ちかまつよしち)という名で浄瑠璃作者となります。

1794年(寛政6年)には江戸へ出て作家業に専念し、東海道を歩くたびに蓄積した資料をもとに「東海道中膝栗毛」を書き上げ、この著作の大ヒットにより、流行作家の地位を確立しました。以後、20年以上にわたって各地の道中膝栗毛を書き続けました。物語の滑稽さとは対照的に一九は口数の少ない人物で、取材旅行中もろくに話をしないため、旅の途中で同行者が帰ってしまうこともあったといいます。

真円山東陽院の入口にある一九の碑は徳川夢声(とくがわむせい)が書いたものです。墓石は東陽院納骨堂(屋内墓地)にあり、墓の左側面には、有名な辞世の句「此の世をは とりやお暇に 線香の 煙とともに 灰さようなら」が刻まれています。

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(左・右上)真園山東陽院(しんえんざんとうよういん、勝どき4-12-9)の入口にある十返舎一九碑・説明板。

(右下)今回立ち寄った尾道の千光寺公園「文学のこみち」にも、十返舎一九碑(日のかげは 青海原を照らしつゝ 光る孔雀の 尾の道の沖)がありました。

後記

中央区観光協会特派員になり、新川の今田商店さんを取材させていただいたことがきっかけに、この夏、今田酒造本店さんを訪ね、今田美穂さんにお会いすることができました。普段は、今田商店さんを通していただいている「富久長」ですが、実際に安芸津の地を訪れ、五感でテロワールと酒造りの歴史を感じた後、帰京していただいた「富久長」は格別な味わいがありました。

また、鞆の浦は一生で一度は行きたい場所でしたので、今回の旅でその念願が叶って感慨無量です。江戸時代から続く情緒あふれる町並み、穏やかで美しい海と島が織りなす“多島美”は、まさに感動の一言でした。対潮楼では、朝鮮通信使の一行が眺めた景色を追体験することができ、忘れられない思い出となりました。

皆さまもぜひ歴史情緒あふれる風光明媚な瀬戸内海の旅にお出かけください。おすすめいたします。

さて、夏休みモードもそろそろ終わりとなりますので、次回のブログは、また日常に戻り、「新川に架かる9つの橋(シリーズ2回目:霊岸橋、新亀島橋、亀島橋)」(シリーズ1回目はこちら)をお届けしたいと思っています。

引き続きよろしくお願いいたします。

 

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(上)6月末にリニューアルオープンした 新川 今田商店 (下)四代目の今田健夫さん 

 

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