中央区の歩道っておもしろい! 34.江戸・もみじ通り
こんにちは、湊っ子ちゃんです。
中央区の歩道っておもしろい!の第34号です。
前回の第33号から、もう3年も経ったのですね・・・。
久しぶりに、シリーズの復活です。
よろしくお願いします。
中央区では、京橋地域43路線、日本橋地域46路線、月島地域10路線、合計99路線(令和5年8月現在)の道に、愛称がついています。
道路愛称名は、そのまちの歴史を物語っていたり、地域のみなさんの思い入れがあったり、その道を通る人たちに、まちへの興味や、愛着をもつきっかけをくれます。
湊っ子は、そんな中央区の歩道が大好きです。
今回は、「江戸・もみじ通り」を歩きます。
日本橋一丁目18番、日本橋川のほとりから、日本橋三丁目15番、八重洲通りにいたるまでの通りです。
平成15年に「江戸・もみじ通り」の愛称がつけられました。
街路樹には、愛称とおなじ、イロハモミジが。
季節ごとで色を変え、通りを彩ってくれます。
今は、夏の緑が鮮やかです。
さて、江戸・もみじ通りと並行するようにして、東側には都心環状線が走っています。
道よりひとつくぼんだところを走る、車たち。
車のうえを渡る、いくつもの橋たち。
そうです、この道路は、もともと川だったのです。
楓川(かえでがわ)といいました。
京橋川と日本橋川を結ぶ水路で、江戸前島の東側海岸線にあたりました。楓川の部分を水路として残し、埋立てが東に進んでいった、という感じです。
ですから、御船手頭向井将監忠勝の屋敷もありました。いま、海運橋の親柱の残るあたりです。
それまでおもだった舟運は、時とともにその役割を終え、かわりに車やトラックなどの交通量が増加しました。
昭和39年の東京オリンピックに向けて、まちが急速に変化するなかで、楓川は高速道路にその姿を変えたのです。
ところで中央区には、川の名前に、楓(かえで)、桜(さくら)、紅葉(もみじ)とあることをご存じですか?
なんとも、お江戸中央区らしい、粋なとりあわせです。
ひとつめの楓川、そしてふたつめの桜川は、八丁堀のことです。
もともと八丁堀は、八丁堀舟入といい、海からの攻撃に対して、江戸城および江戸市中を防御するために築かれた、突堤の内側にあった舟入堀でした。
その長さが八丁(872m)あったことから、その名がついたのです。
入り口には、御船手頭向井将監が構えていました。
そうです、海岸線が移動したのにともない、海の門番も移動したのです。
この頃、まだ鉄砲洲も、築地もありませんでした。
その後、八丁堀は、亀島川と楓川をむすぶ、舟運の重要な水路として活躍しました。
そして、明治になって、桜川と名前を変えました。
東京湾の埋立てが進んだ今も、八丁堀・湊・入船という町名が残っていることは、東京の歴史を知るうえで、とても貴重なことですね。
さて、みっつめの紅葉川(もみじがわ)とは・・・?
まだ、八丁堀も楓川もない、ごくごく江戸の初期までさかのぼります。
北は日本橋川、南は京橋川のあいだ、海岸線(のちの楓川)から外堀方向に向かって、9本の入り堀がありました。
材木町一丁目から八丁目まで町の間に一本ずつ、そして外堀とのバイパスとして京橋川と、この紅葉川(もみじがわ)がありました。
これは、江戸城内郭の工事のために掘られた、「埠頭」の役割をもつものでした。
紅葉川は、ちょうど、いまの八重洲通りにあたります。久安橋あたりから、外堀に向かうラインです。
江戸最古の地図といわれる、寛永9年(1632)「武州豊嶋郡江戸庄図(寛永江戸図)」に、そのようすが見てとれます。
紅葉川(もみじがわ)の名は、江戸城の紅葉山から水がそそいでいたことに由来します。
いまの、ちょうど久安橋のあたりが、合流点でした。
紅葉川には、中橋という橋が架かっていました。ちょうど、中央通りと八重洲通りが交差するあたりです。
中橋…といえば、江戸歌舞伎発祥の地!
寛永元年(1624)、猿若座、のちの中村座が、中橋南地で櫓をあげたのがはじまりです。
このあと、紅葉川の西半分は、中橋広小路となり、火除け地として、また、猿若座の誕生によって、繁華な一帯へとその性格を変えてゆきます。
元禄の頃といえば、家康が江戸入府してから、ちょうど100年。
海岸線はさらに東へ進み、鉄砲洲や築地も姿を見せています。
その頃には、これらの入り堀も内陸化し、その役割を終えました。
さいごまで残ったのは、大根河岸のある京橋川と、この紅葉川。
京橋川は、その後も舟運を助け、戦後まで残りましたが、紅葉川は、元禄のこの頃に、ほかの入り堀とどうよう、姿を消したのです。
さらに、紅葉川がほんとうに存在したことを物語る、ある記念碑をみつけました。
「東京都立紅葉川高等学校跡地」というものでした。
楓川(いまの都心環状線)の東側、中央警察署の、歩道に面した植え込みのなかに、足元の高さほどの、石造りの記念碑があります。
東京都立紅葉川高等学校は、昭和3年に発足し、昭和59年に移転するまで、この地にあった学校でした。
記念碑のなかでは、かつての紅葉川が校名の由来であることにもふれています。
ちかくには、日枝神社の兼務社であり、舟運の守り神とされる、大原稲荷神社も。
ビルのあいだに、ひっそりと御鎮座しています。
まぼろしの紅葉川(もみじがわ)をさがして…。
今は痕跡もありませんが、「江戸・もみじ通り」の名に、その名残りが残っている、そう考えると、おもしろいですね。
♪参考文献「歩いてわかる中央区ものしり百科」中央区観光協会/「京橋図書館郷土室だより 第57号ポートピア’16-江戸湊のなりたち-」鈴木理生 昭和62年/「京橋図書館郷土室だより 第152号江戸・東京の川=中央区の川」菅原健二 平成27年/「京橋区沿革図集 京橋編」中央区立京橋図書館 平成8年/中央エフエム84.0「江戸の昔の河岸のおはなし」毎週日曜午前11時45分から放送中
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第191号 令和5年8月1日