関東大震災から100年 ― 復興小公園をたずねる
今年の9月1日で、1923年に発生した関東大震災から100年が経ちます。
今回の記事は、この節目に、関東大震災からの復興の軌跡に触れられる場所をひとつご紹介したいと思います。
中央区では、地震動とその後の大規模火災により、区内の大半が焼失する甚大な被害が発生しました。
関東大震災からの復興においては、昭和通りや大正通り(現・靖国通り)をはじめとする幹線道路の整備とそれを中心とした土地・区画の整理、隅田川の復興橋梁の建設、築地市場の建設、浜町公園の建設などが進められました。まさに、現在に通ずる中央区の街の骨格が関東大震災からの復興期に形作られたと言えます。
ここでもう2つ、関東大震災からの復興事業に含まれる大事な事業があります。それは復興小学校と復興小公園の整備です。
復興小学校は、震災前には珍しかった鉄筋コンクリート造の小学校を各地に整備したものです。燃えず、地震にも強く、かつ都市の美観にも資する小学校は、周辺の街にとって復興の象徴であったのではないでしょうか。泰明小学校や常盤小学校など現存・現役のものもあり、丸みのかかった窓など瀟洒なデザインがよく知られています。
復興小学校に比べると知名度が低いかもしれませんが、同時に復興小公園というものも整備されました。復興小公園は、復興小学校の隣接地に公園を整備し、狭い校庭を補完しつつ、地域のコミュニティ形成や防災のための場所として使われることが想定されました。
現在の中央区に相当する日本橋区と京橋区では、計24校の復興小学校が建設され、そのうちいくつかに隣接して11箇所の復興小公園が整備されました。加えて、復興小学校に隣接する既存の公園3箇所でも、復興小公園に準ずる再整備が行われました。冒頭の地図に、一覧を示しています。(「東京市教育施設復興図集」をもとに筆者作成。背景は国土地理院の「淡色地図」を使用。)
一体的に整備された復興小学校と復興小公園
復興小公園と復興小学校は、単に隣接地に整備されただけでなく、相互の関係性を意識した設計が行われました。
他区も含めて最も多いパターンでは、南・東・西のどちらかに開いたコの字型の小学校校舎に対し、その開いている側に復興小公園が配置されることで、小学校の校庭と小公園が連続した空間になるよう設計されていました。
また、校庭と小公園の間に校舎が挟まってしまう場合であっても、多くの場合は小学校の昇降口が小公園側に設けられていました。
この航空写真は、戦前に陸軍が撮影した旧・十思小学校と十思公園です(提供:国土地理院)。
小学校の校庭と公園の広場が連続した空間になっていることがよくわかります。
校舎の日当たりを確保するとともに、子どもたちが活発に活動する校庭の空間を広く取り、その一部は地域の老若男女のためにも使う…と、すでに過密状態にあった東京において、復興小公園は土地を効率的に使って安全で快適な都市空間を生み出す優れたアイデアだったと言えます。
復興小公園のいま
復興小学校も復興小公園も、90年以上の時を経てその姿は変化していきました。
小学校は児童数の減少や建物の老朽化などにより建て替えや増築、用途の転換が進みました。
復興小公園も、開園当時の遊具などは老朽化によりほぼ撤去されてしまいました。学校の建て替えや増築に伴って公園時代が廃止または縮小された例もあります。
したがって、先に説明した「校庭と公園の連続」が分かる場所も減ってきているのですが、今回、区内の復興小公園を調べたところ、1箇所だけ今でもその空間を体感できる場所を見つけました。
…それは箱崎公園(日本橋箱崎町18-18)です。
復興小学校・復興小公園の特徴を今でも体感できる箱崎公園
箱崎公園に隣接する旧・箱崎小学校は復興小学校ですが、1944年に集団疎開ののち廃校となりました。
しかしその後も、東京都立葛飾中学校→日本橋中学校→日本橋高等学校として校舎は使われ続け、同高校が墨田区に移転したあと、現在は舞台稽古を行う東京舞台芸術活動支援センター(水天宮ピット)として引き続き建物が利用されています。
箱崎小学校のコの字形の校舎は、高校として使われている時期に体育館建設のために半分が取り壊されてしまったようですが、校庭状の空間は今も残っています。そして、箱崎公園と旧校庭が繋がった空間であることが今でもよくわかります。
水天宮ピットの入口側はタイルが貼られて綺麗に改装されていますが、旧校庭側は箱崎小学校時代の面影が強く残っています。
完全ではないもの、復興小学校・復興小公園における校舎、校庭、公園の関係性を体感できる場所です。
このような場所、今はなかなか貴重な存在になっておりますので、お近くにお越しの際は、ぜひ箱崎公園に立ち寄ってみてください!