湊っ子ちゃんブログ祝200号記念♪KATTEに湊検定!!
こんにちは、湊っ子ちゃんです。
2018年より、中央区観光協会特派員として、公式ブログの執筆をおもに活動させていただいております。
このたび、公式ブログ200号を迎えました!!
お世話になったみなさまに、感謝の気持ちと、心よりありがとうを込めて…。
「KATTEに湊検定!」
と題して、湊っ子が湊のまちでみつけた、ちいさな発見や、ささやかな日々のひとコマを、勝手に!クイズにしてみました。
中央区観光検定をマネして、4択です。
質問はぜんぶで10問。
答えは、各質問のあとに続きますので、うっかり答えを見てしまわないように、スクロールのタイミングにご注意ください。
湊っ子のいちばん身近で、大すきな湊のまち。
湊の魅力をもっと多くのみなさまにお伝えし、湊を歩いてみたい!と思っていただけるような内容を心がけました。
それではみなさん、ぜひチャレンジしてみてくださいね!
♪KATTEに湊検定!
問1.鐵砲洲稲荷神社の境内には、湊のまちらしい、たくさんの鉢植えがあふれています。そこに、陶器製のかわいい生き物がかくれています。それは次のうちどれでしょう。
ア.あひる イ.こびと ウ.かえる エ.うさぎ
答え ウ
みなさん、鐵砲洲稲荷神社をご参拝のさいには、ぜひ探してみてくださいね!
♪鐵砲洲稲荷神社 湊1‐6‐7
問2.湊三丁目の、隅田川畔に御鎮座する、汐見地蔵尊。朱色のこぢんまりとしたお堂は、あふれるばかりの花に囲まれ、いつもきれいにお清めされています。さて、お地蔵さまにお供えされるお菓子類のうち、いちばん頻度の高いものはどれでしょう。
ア.おせんべい イ.ポテトチップス ウ.あめ エ.おまんじゅう
答え イ
湊っ子が、ポテトチップスが好きだから目につくだけかも~!?
♪汐見地蔵尊 湊3‐18‐22
問3.平成28年度湊二丁目第五次発掘調査において、明治時代の土管が出土しました。直径は、両手を広げてもあまりあるくらいの、大型の常滑焼き。井戸の汲み取り口用として使われていたものと考えられています。この土管は、現在まったく違った目的で使用されています。それは次のうちどれでしょう。
ア.記念オブジェ イ.公園の遊具 ウ.花壇の鉢植え エ.車止め
答え ウ
貴重な文化財が、まさかの鉢植えになっている!湊の鉢植え文化のすさまじさ!けれど、そんなおおらかな感じが、湊っ子の好きな、湊らしさです。
♪湊二丁目第5次遺跡出土の土管 湊1‐8‐15付近
問4.江戸時代から大正の頃まで、船松町(ふなまつちょう)という町名がありました。船を待つ、から転じたもので、ここが江戸湊の中心であり、荷を積んだたくさんの船が停泊していた光景を伝えています。さて、その船松町とは、現在のどのあたりを言ったでしょう。
ア.湊三丁目と明石町 イ.湊一丁目と新川 ウ.湊二丁目と石川島 エ.湊三丁目と佃
答え ア
江戸時代から大正の頃まであった町名です。ちなみに、いまの新川二丁目、御船手頭向井将監のお屋敷のあった一画は、新船松町といいました。江戸っ子らしい、洒落た町名ですね。
問5.明治時代、いまの明石町が外国人居留地になると、湊・入船かいわいは、その一部として外国人が居住し、外国人用のホテルや食料品店などが開業しました。新栄町5丁目(現在の入船三丁目)にあった、チャリ・ヘスの営むパン屋さんは、東京における、あるパンの発祥の地といえそうです。それはどんなパンでしょう。
ア.フランスパン イ.あんぱん ウ.シナモンロール エ.食パン
答え エ
チャリ・ヘスは明治3年、采女橋たもとに開業した精養軒において、料理長として招かれた人物でした。銀座の大火のあと、チャリ舎というパン屋さんを開きました。チャリ舎の食パンの耳の味は、忘れられないほどのおいしさだったといいます。
♪チャリ舎のあった、区立二中前歩道橋たもとあたりを望む
問6.指紋研究で名を馳せたヘンリー・フォールズ。居留地18番、いまの聖路加ガーデンの一角に邸宅を構えていたことで知られていますが、東京に着いてすぐの頃は、相対借り地域である、湊一丁目の路地にあった、古びた日本人家屋を改良したホテルに泊まりました。その外国人用ホテルの名は、次のうちどれでしょう。
ア.ホテル・メトロポール イ.オテル・デ・コロニー ウ.築地ホテル館 エ.エド・ホテル
答え エ
築地ホテル館も、Yedo Hotel(エドホテル)、と呼ばれていましたが、まったく違うホテルです。エド・ホテルは、フォールズの言葉を借りれば、”赤ら顔のトムソン”が経営していました。のちに、居留地17番に移転します。
♪指紋研究発祥の地 明石町8‐1先
問7.築地カトリック教会は、東京で最古のカトリック教会として、そして、かつての築地外国人居留地の数少ない面影として、荘厳なたたずまいを今に残しています。明治4年、いまの湊一丁目にあたる、ある橋のほどちかくで誕生しました。その橋とはどれでしょう。
ア.鉄砲洲橋 イ.見当橋 ウ.桜橋 エ.稲荷橋
答え エ
パリ外国宣教会のマラン神父が、商家を借りて語学塾をひらき、「稲荷橋教会」としたのがはじまりです。明治7年、今の場所、居留地36番に移り、同11年には、ゴシック調赤レンガ造りの聖堂が建ちました。現在の聖堂は、昭和2年築で、ジロジアス神父と石川音二郎の設計、ギリシャ神殿パルテノン様式です。正面ペディメントのチューリップとバラのモチーフは、左官職人の手仕事によるもので、当時の職人技術が光る貴重なものです。
♪カトリック築地教会聖堂 明石町5‐26
問8.湊三丁目町会のうたがあります。4番まであり、そのうちの2番の歌詞をご紹介しますと、「♪歴史は古し鉄砲洲 佃の渡しや 防波堤 流れは今日も隅田川 昔変わらぬ人の輪は われらの誇り‐」につづくフレイズは何でしょう。
ア.湊町(みなとちょう)イ.湊波止場 ウ.湊三(みなとさん)エ.わが三丁目
答え ウ
昭和55年に発行された、「湊三丁目町会創立三十周年記念誌」という本のなかに、歌詞が載っています。町会クラブの方が、子供の頃、明石小の体育館で合唱した思い出を語ってくださいました。どんな歌なんだろう、聴いてみたいなぁ~!
問9.湊のまちを歩いていると、トタン張りのちいさな家の、そのガラス戸のなかに、あたたかな灯がともり、印刷機の音がきこえてくることがあります。湊・入船・八丁堀かいわいには、いまも印刷所や製本所が多くあります。その歴史は、明治期のある出来事からたどることができますが、それはなんでしょう。
ア.銀座の煉瓦街に新聞社が多く集まったこと
イ.海水館が佃島にあり文人が集まったこと
ウ.八丁堀に国学者や儒学者がいたこと
エ.湊1丁目に劇作家の生誕の地があること
答え ア
明治6年にできた銀座煉瓦街には、新聞社がおおく進出し、時代の最先端をゆく、情報発信の拠点になりました。ほど近い、築地一丁目には、平野富二が、のちの東京築地活版製造所を興しています。近隣の湊などでは、銀座の新聞街に勤務する人が多く、印刷技術を習得すると、自分の家で、ちいさな印刷所を経営するようになりました。
♪湊三丁目の路地に残る、京橋製本会館にて
問10.いまの湊一丁目、当時の京橋区南八丁堀三丁目に生まれた劇作家は、おもにロンドンで活躍し、その後海外を渡るなかで、若くして客死したことから、悲劇の劇作家と称されています。「義朝記 Toils of Yoshitomo」「清姫若しくは道成寺」「鉄輪(かなわ)」などの作品を残したその人物は、つぎのうち誰でしょう。
ア.山岸荷葉 イ.郡虎彦 ウ.吉井勇 エ.木下杢太郎
答え イ
日本における公演として、明治45年、市川左団次と小山内薫の自由劇場にて、「清姫若しくは道成寺」が公演されたことがあります。
♪郡虎彦(こおりとらひこ)が生まれた湊一丁目の路地を、亀島川よりのぞむ
みなさん、おつかれさまでした。
いかがでしたか?
湊っ子は、まだまだ知らないことばかり。
これからも、もっともっと、湊のまちについて、学んでいきたいです。
湊っ子ちゃんは、今日も元気に歩きます!
♪参考文献
「歩いてわかる中央区ものしり百科」中央区観光協会/「中央区区内散歩(七)」中央区企画部広報課 平成19年/「中央区民文化財ガイド 京橋編」中央区教育委員会 平成17年/「湊三丁目町会創立三十周年記念誌」湊三丁目町会 昭和55年/「東京はじめて物語‐銀座・築地・明石町‐」清水正雄 六花社 1998年/「築地外国人居留地‐明治時代の東京にあった外国」川崎晴朗 雄松堂出版/2002年/「中央区の昔を語る(三)入船・湊・月島」中央区教育委員会 平成二年/「中央区の昔を語る(七)明石町・富沢町」中央区教育委員会 平成5年
♪Special Thanks to ...
中央区観光協会のみなさま、特派員のみなさま、読者のみなさま、中央エフエム84.0のみなさま、まちで出会ったみなさま、中央区立図書館のみなさま、本の森ちゅうおう地域資料室のみなさま、中央区立郷土資料館のみなさま、ブログを書くにあたり、お世話になったみなさまに、心より感謝申し上げます。
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第200号 令和5年9月3日