銀座ガス灯通り、4丁目から1丁目まで
歩いてみました 後編(2丁目~1丁目)
~ 銀座ガス灯通り ~
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
「銀座ガス灯通り、4丁目から1丁目まで歩いてみました」、今回は後編、「2丁目~1丁目」です。
11月8日掲載の、前編「4丁目~3丁目」はこちらです。
⇒ https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=4436
ガス灯のモニュメントです。
前編でもご紹介しましたが、幕には「ようこそ銀座へ 2丁目 銀座ガス灯通り」の文字と、山や木、建物や動物が描かれています。
3丁目ですと、「2丁目」のところが「3丁目」になっています。
1丁目のガス灯のモニュメントには、「銀座ガス灯通り 1丁目」としっかり書かれています。
銀座1-6-8、銀座イタリー亭さんです。
1953年、昭和28年、ここ銀座にオープンしましたイタリアンレストランです。
「ローマの裏町にあるような『ちょっと目立たないけど、毎日行列ができるイタリア料理のお店』を創りたい」・・・、創業者のその想いでできたお店です。
たまたまなのですが、ちょうど列の最後のお客様が招き入れられたところの画像です。
男性客が入っていくところが写っていますね。
普段は行列ができています。
噂では、パスタの量が多めになっているそうです。
観世新道(かんぜじんみち)
江戸時代、この「銀座ガス灯通り」は「観世新道」と言われていました。
当時、能楽の金春(こんぱる)、観世、宝生(ほうしょう)、金剛(こんごう)の四家の屋敷が全て、現在の中央区にありました。
その観世流の屋敷が、この通りにあったそうです。
ですからここは「観世新道」と呼ばれるようになった、とのこと。
2021年1月14日の記事でもご説明させていただきましたが、江戸古典落語の「阿武松(おうのまつ)」に「観世新道」が登場します。
落語「阿武松」は相撲取りの阿武松の出世噺ですが、その阿武松の最初の師匠・武隈文右衛門(たけくまぶんえもん)の部屋があったのが「観世新道」でした。
そこでは「京橋の観世新道」と紹介されていましたが、つまり「銀座」という地名が発生する以前はここは京橋の一部、とされていたのでそのような説明となったのです。
金春(こんぱる)通り
最後にまた寄り道です。
観世新道と同様、「金春通り」という通りも、銀座には存在します。
4月23日の記事「『銀座』はどこまで? 銀座を一周してみましょう!④ ~ 銀座柳の碑・金春屋敷跡 ~」でもご紹介させていただきましたが、・・・。
上の2枚の画像、上が「金春通り」、下が「金春屋敷跡」です。
金春屋敷跡の碑は、金春通りの銀座8-7-11にあります。
金春屋敷跡
能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉のの保護を受けて大いに興隆しました。
特に、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召し抱えられました。
江戸幕府も、秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽(しきがく)と定めました。
元禄5年(1693年)頃の江戸市中の状況を記した「国花万葉記(こっかまんようき)によると、金春太夫は山王町(さんのうちょう:現在の銀座8丁目)、観世太夫は弓町(ゆみちょう:現在の銀座2丁目)、宝生太夫は大鋸町※(おがちょう:現在の京橋1丁目)、金剛太夫は滝山町(現在の銀座6丁目)に屋敷を拝領していた、とあります。
金春家は、嘉永4年(1627年)に屋敷を拝領したといわれ、寛永江戸図『武州豊嶋郡江戸庄図(ぶしゅうとしまごおりえどしょうず)』には「金春七郎」の名が確認でき、現在の銀座8丁目6・7・8辺りに図示されています。
後に屋敷は麹町(現在の千代田区)に移りましたが、跡地には芸者が集まり、花街として発展しました。
金春の名は「金春湯」「金春通り」などと、今もこの地に残っています。
※ 大鋸町は、浮世絵師の歌川広重が、後の嘉永2年(1849年)から死去するまでの約10年間を過ごした住居があったところです。
ー 中央区教育委員会 説明板 より ー
銀座桜通り側の1丁目から4丁目方向に、銀座ガス灯通りを撮りました。
銀座ガス灯通りは「銀座っぽくない銀座」かもしれませんが、ロズマリにとっては「ここぞ銀座」と主張したいところです。
銀座ガス灯通り、ご堪能いただけましたでしょうか?
銀座ガス灯通り
銀座ガス灯通りは、中央を斜めに走る通りです。ターコイズ色の線で示しています。
前回の前編ではそのターコイズを、左下の晴海通り側から線の半分まで右方向に上昇しましたが、今回はその続き、線の中央から更に右上の、銀座桜通りに着くところまでを歩きました。