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〝ナンバー銀行″ 今昔

百十四銀行、十六銀行、七十七銀行…。中央区内には数字を連ねた名前の銀行がいくつかありますが、はて、この数字の意味は? 日銀の金利政策の変更で、スズメの涙ほどにせよ預金金利が上がり始め、人々の銀行見直し機運も生まれそうな中、散歩がてら〝ナンバー銀行″の歴史を訪ねてみましょう。

 

株の街・日本橋兜町を歩くと、みずほ銀行兜町支店の壁にはめ込まれた「銀行発祥の地」のプレートが目に留まります。ご存じ渋沢栄一らが明治5年(1872)に設立した第一国立銀行がこの地にあったことを示すもので、その後、改組、合併などを重ね、現在のみずほ銀行がその末裔に当たるというわけです。

 〝ナンバー銀行″ 今昔

「銀行発祥の地」みずほ銀行の壁には当時の面影を伝えるパネルも

 

国立銀行条例により紙幣の発行権が与えられたとはいえ、この銀行は民間資本・民間経営による株式会社。10年足らずのうちに第二、第三…と認可順に百五十三に及ぶ「国立」の銀行が全国に誕生しましたが、明治15年(1882)、日本銀行が創設され、紙幣の発行が新たな中央銀行に一本化されると、それまでのナンバー銀行は普通銀行に転換し、「国立」の文字が消えてしまいます。

 

その後、一番手の第一国立銀行同様、それぞれが紆余曲折を経て、銀行名を改めたり廃業したりしていく中、現在も当初のナンバーのみを名乗っているのは、十六銀行、七十七銀行、百五銀行、百十四銀行の4行。さらに合併相手の銀行名とドッキングしている第四北越銀行と十八親和銀行の2行も広義のナンバー継承組と言えるでしょう。

 〝ナンバー銀行″ 今昔

渋沢栄一の後押しで創業した七十七銀行(日本橋支店)

 

これら6行すべては地方銀行ですが、いずれも中央区内に支店を構えており、初代の跡地・みずほ銀行兜町支店から目と鼻の先の日本橋茅場町には、宮城県仙台市に本拠を置く七十七銀行の日本橋支店があります。その祖である第七十七国立銀行は明治11年(1878)、渋沢栄一から物心両面の強力な援助を受け、恵まれたスタートを切りました。東京の店舗は東京株式取引所(現・東京証券取引所)とも間近という地縁もあって長年、取引所と業務上、緊密な関係を保って来たそうです。

 

少し歩いて中央通りに出ると、百貨店の日本橋高島屋とはさくら通りを挟んで南隣に店を構えるのが百十四銀行東京支店(本店=香川県高松市)。周囲は買い物客やビジネスパースンが行き交い、ナンバー銀行の中では最も有利に思える立地ですが、数字の行名からは何県の銀行かヨソ者には判りにくいきらいも。そのせいか壁面のショーウインドウでは金刀比羅宮や高松の祭り、直島にあるアーティスト草間彌生の作品の写真などでご当地の観光資源をアピールしています。

 〝ナンバー銀行″ 今昔

郷土の祭りの写真で香川の魅力を発信

 

因みにこの銀行、日本経済新聞社が商品力やサービスの使いやすさ等について利用者の評価を調べた「銀行ランキング」調査(全国82の有力銀行対象、2024年)で、ネット銀行やメガ銀行に混じり11位に食い込んだ人気行でもあります。

 

同じ町内にはもう一つ百五銀行の東京営業部もみつかりました。日本橋の南詰付近に建つ漆器店のビルの2階で、本店は三重県の津市。少し北側に移って日本橋本町の江戸通り沿いには十六銀行(本店=岐阜県岐阜市)の東京支店も。高山祭や長良川の鵜飼の華やかな映像広告やポスターが目を引きます。

 

合併を機に銀行名が変わるケースは多々ありますが、旧ナンバーを残しながら、漢字(文字)が加わった一例が、新潟県新潟市に本店を置く第四北越銀行。「ダイシホクエツ」銀行と読みます。東京支店は日本橋室町の日本橋三越本店向かいと地の利は抜群ですが、一階は新潟のアンテナショップで銀行の店舗は上階。ビルの表には看板が無いので見過ごすかもしれません。長崎県長崎市の十八親和銀行も、同じく合併で「数字プラス文字」の行名に改称しました。東京支店は京橋の高層ビル9階に納まっています。

 〝ナンバー銀行″ 今昔

第四北越銀行の店舗は新潟のアンテナショップの上階にひっそりと

 

単純に計算すると、これまでに147の「ナンバー」が消滅したことになりますが、中には改称でなく経営難などで姿を消したものも結構あります。例えば第二十七国立銀行。大正期に東京渡辺銀行と改称した同行は、放漫経営で青息吐息だった昭和2年(1927)、時の蔵相に帝国議会で「東京渡辺銀行が破綻」と早とちりの誤報を公言され、取り付け騒ぎの末、現実に破綻してしまいました。昭和金融恐慌の引き金を引いたこの銀行は、かつての本材木町、現在は日本橋一丁目に残る海運橋親柱の近くにあったようです。

 

また東京で創業した第百国立銀行は、昭和18年(1943)に当時の三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)に吸収合併され、ナンバーを失いましたが、この銀行には、文豪・永井荷風も少なからぬ資産を預けていた模様。昭和5年(1930)1月4日の彼の日記「断腸亭日乗」には、前年から銀行の取り付け騒ぎが起きるらしいとの噂がしきりにあるため、朝のうち京橋の第百銀行に赴いて預金を引き出し、三菱銀行に移し入れた旨の記述があります。後々の両行の関係を考えると、荷風という人物、なかなか目端の利く蓄財上手だったことが伺えるでしょう。

 〝ナンバー銀行″ 今昔

〝足し算〟で誕生した八十二銀行の東京営業部

 

最後に番外編的なナンバー銀行の紹介を一つ。長野県長野市の八十二銀行は明治期に鳥取で産声を上げた第八十二国立銀行の名を受け継いだものかと思うと、さにあらず。本家の方は既に別の名称に変更済みで、日本橋室町に東京営業部がある現在の八十二銀行は、昭和6年(1931)に六十三銀行と第十九銀行が合併した際、双方の数字を足し算して生まれたいわば〝ハイブリッド〟名称。お堅い銀行にしては遊び心のある命名といえるでしょう。

 

 

▽主な参考資料

「銀行変遷史データベース(https://www.zenginkyo.or.jp/library/hensen/)」(全国銀行協会銀行図書館)

「摘録 断腸亭日乗」(上)永井荷風(磯田光一編) 岩波文庫

「失言恐慌―ドキュメント東京渡辺銀行の崩壊」 佐高信 駸々堂

「読んで歩いて日本橋」 白石孝 慶応義塾大学出版会