たけちゃん

佃島も江戸城の出城かなぁ??

前回、浜離宮が江戸城の出城説を書きましたが、これはほぼ真実です。私は江戸の昔から隅田川の河口に位置する佃島も江戸城の出城の役割を担っていたと勝手に推測しています。佃島の歴史はけっこう複雑ですが、さらっと簡単にご紹介します。
 
あくまでも推測ですが、江戸時代以前にもこの島は隅田川河口に存在していたと思われます。佃島と言われるようになったのは江戸時代初期。その頃の将軍は徳川家康公。少し時を遡ります。
 
時は天正10(1582)6月。明智光秀が織田信長を討った本能寺の変。その頃、大阪の堺を見聞中だった家康公。「まずいなぁ、今後は俺が討たれるかも」と危険を察知。三河に直接帰らず、兵庫へ逃げることに。神崎川(淀川の分流)を渡らなければならなかったのですが、運悪く大水で立ち往生。そのとき漁船を出して家康一行を助けたのが、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁民たちでした。家康のルートには諸説あります。

 佃島も江戸城の出城かなぁ??

関ケ原の合戦で勝利した家康は江戸に幕府を開きます。命の恩人である佃村の漁民33人を江戸に連れてきました。恩賞として幕府は佃村の人々に隅田川河口にある一等地の島と漁場を与えます。この島を漁民の故郷にちなんで佃島と名付けたのです。はい、これが佃島としてのはじまりです。ここまでは定説です。
 
ここからは私の推測。地理的も重要なこの土地を佃村の人たちに与えたのは、何か裏があるのでないか。。漁民たちは大阪の冬の陣や夏の陣でも密使の役を命じらたようです。つまりある程度軍事訓練を受けていた可能性があるのでは、と私は推測します。ということで、佃島を江戸城の出城として捉えてもいいのではないでしょうか。あくまでも推測ですが。

 佃島も江戸城の出城かなぁ??

さてついでに佃島と築地の関係もご紹介しましょう。

築地本願寺はご存知ですか?浄土真宗のこのお寺は1617年に浅草付近に創建されましたが、1657年の明暦の大火で焼失。代替地と与えられたのが八丁堀沖の海の中。埋め立てに尽力したのは、佃島に住む浄土真宗の門徒達です。事実、築地本願寺の庭には佃島初代名主の佃忠兵衛報恩塔も建てられています。築地本願寺付近は、新しくつくられた土地との意味で「築地」と命名されました。
 
さて話は佃島に戻りますが、時は移って江戸時代末期。黒船来航の時代に品川沖にお台場が造られたのは有名な話です。その約10年後、元治元年(1864年)、佃島の南側に江戸湾の防衛施設として砲台が建設されました。東西約70m、南北約72mのほぼ正方形だったといわれています。これはレアな話でしょ?居酒屋トークで使えます。