2軒の羊羹屋
『恵合余見』第二冊(一部拡大) 国立国会図書館デジタルコレクション
『恵合余見』なんと読むでしょうか。
「えごよみ」と読みます。現在の漢字に直すと「絵暦」です。
これは江戸時代のカレンダーです。江戸時代は太陰太陽暦でした。大の月は30日、小の月は29日。しかも、2,3年に一度は13か月にして実際の季節に合わせるなど複雑でした。大の月小の月並びは毎年変わるのでそれを知るために暦が必要でした。
絵の中に大小の月を忍ばせて謎解きのようにした絵入りの暦を交換することが流行りました。明和2(1765)年には絵暦のコンテストが開かれるなど、絵暦が大流行。美しい作品を競い合うなかで、鈴木春信が多色刷りの絵暦を発表したことから「錦絵」がうまれたのです。
この竹皮に包まれた羊羹も絵暦なので大の月がわかるようになっています。足つきの台に下げられた紙から「天明7(1787)年 未年」のものであることがわかります。羊羹に羊の文字がつかわれていることから未年の暦に羊羹が使われることがあったようです。羊羹の左の短い側面に「大」の文字があります。上面に右から「正(一)、四、九」、手前側の側面に「十、七、十二」が隠れているのがお分かりになるでしょうか。天明7年の大の月を現した絵暦になっています。
羊羹はなぜこのような立派な台に載せられているのでしょうか。
贈答用としての羊羹
『新板大江戸名物双六』東京都立図書館デジタルアーカイブ
嘉永5(1852)年の江戸の名物を集めた双六です。右下の「日本橋魚市」がふりだしで左上の着飾ったお嬢さんたちが本や浮世絵を楽しんでいるコマが上がりです。途中には現在も向島で営業されている「長明寺桜餅」が「隅田川桜餅」として出ていたり、高級料亭で知られていた「八百善」もあります。
その中に冒頭の絵暦で紹介したのと似ている羊羹があります。拡大してみます。
『新板大江戸名物双六』(一部拡大)東京都立図書館デジタルアーカイブ
「鈴木やうかん」というタイトルで大きな鏡餅を前に2人の男性が頭を下げて挨拶しています。状況から新年のご挨拶でしょう。二人の間に絵暦と同じような足つきの台に乗った細長い「やうかん」があります。鈴木の羊羹はご進物に使われる高級品だと想像できます。絵暦の羊羹は竹皮に包まれていますがこちらは折り箱に入っているように見えます。正式な贈答には折り箱を使ったのでしょうか。
2軒の菓子店
『江戸切絵図 日本橋北神田浜町絵図』(拡大 店名、橋名加筆)国立国会図書館デジタルコレクション
「鈴木やうかん」は地図上の本町一丁目にあった幕府御用達の「鈴木越後」というお店です。『江戸名物詩』にも「羊羹天下に鳴る」と紹介されています。有名店であったことがわかります。
鈴木越後の近く、本石町二丁目にあった「金沢丹後」も幕府御用達です。羊羹も作っていましたが一番得意なのは有平糖でした。主に献上用の見事な細工菓子を作るお店だったそうです。その2軒の店の羊羹をめぐって次のようなエピソードがあります。
天明年間(1781~1788)の話です。ある武士が昇進した際に、慣例に習って同僚を料理でもてなすことになりました。指導役の助言に従い有名料理店の料理などをそろえましたが、懐具合がなかなか厳しくなってきました。そこで、「鈴木越後の羊羹」と指定を受けていたのに鈴木越後よりはリーズナブルな「金沢丹後の羊羹」を供したところ1人がこれは鈴木越後の羊羹ではないのでは?と気づきました。慣例を守らなくても許される悪例を残してはいけないと、「ようかんの目が粗い。鈴木越後ならもっとなめらかで、こんな味ではないはず。」責め立てました。接待の座を設けた昇進した武士と指導役は土下座して謝ったということです。
これは羊羹の違いがわかる味覚のすごさを褒める話、鈴木越後の羊羹のおいしさを示す話として引用されることが多いようです。しかし、まがりなりにも幕府御用達であった金沢丹後にとってはこんな比較のされ方をしていい迷惑だったことでしょう。
蒸羊羹?練羊羹?
羊羹とは中国の「羊」肉の「羹(あつもの)」羊肉の入ったとろみのあるスープです。「羹(あつもの)にこりて膾(なます)を吹く」のことわざのあの羹です。
鎌倉、室町時代に禅僧が日本に伝えましたが、日本に羊はいませんし、禅僧は肉食禁止だったので植物性の材料をこねて蒸して肉や魚の形を作り見立て汁物に使っていました。
茶道が始まると蒸した具だけを使って菓子として供されるようになったのが蒸羊羹のはじまりです。
現在羊羹といえば一般的に練羊羹を想像します。しかし、長い間羊羹といえば蒸羊羹でした。練羊羹が作られるようになったのは万治年間(1658~1661)に寒天ができてからでした。その寒天もはじめは寄せものを作ったり葛切りのようにつかったりするだけでした。練羊羹が誕生するのはそれから約100年後になります。その後は練羊羹が大人気となりました。
冒頭の絵暦の羊羹は天明7(1787)。練羊羹が人気の時代にあてはまります。暦はみんなに親しまれる必要のあるものですから流行のお菓子を題材にするのは不思議はないでしょう。したがって、「絵暦の羊羹」は「練羊羹」だと思われます。
さて、問題は絵暦と同時期の天明年間(1781~1788)の話である鈴木越後と金沢丹後の話の羊羹です。時期的には絵暦と同じ練羊羹が人気の時期です。それに加えて、鈴木越後のものではないと気付いて疑いをかけてきた人の表現が、なめらかさが違うということからなめらかさが特徴の「練羊羹」では?と思います。
しかし、『江戸名物詩』の鈴木越後の紹介に「当時処処新製多きも 旧に依って羊羹天下に鳴る」とあります。「新製」とは新しく出来たということなので「練羊羹」でしょう。「旧に依って」ということは、以前からある「蒸羊羹」。したがって鈴木越後は新製品の「煉羊羹」より伝統のある「蒸羊羹」で「天下に鳴る」ということになります。
鈴木越後は当時流行していた練羊羹よりも伝統の蒸羊羹で名を馳せていたとすると、もしかして「蒸羊羹」という可能性もあります。さて、どちらになるのでしょうか。
2軒のその後
鈴木越後も金沢丹後も明治維新の後、廃業しました。どちらも幕府の御用達であったため御用がなくなったことと、それに伴い店の格が下がるのを嫌ったためと言われています。
鈴木越後はなくなりましたが、鈴木越後で修行し「鈴木」の名字と「三つ鱗の商紋」を賜った方が慶応2(1866)に富山で店を開き、現在も練羊羹の伝統を引き継いでいらっしゃいます。その「鈴木亭」のホームページはこちらになります。
金沢丹後は享保から天保の百年間が最も栄え、本石町の本店のほかに日本橋に3支店。上野広小路にも1店の5店があったそうです。鈴木越後と同様に明治維新とともに閉店していますが、11代金沢三右衛門は明治8(1875)に新橋南金六町にビール店を開き、明治12(1879)に「桜田ビール」を発売し人気を博しました。
【参考文献】
『和菓子の楽しみ方』 鈴木宗康 新潮社
『人と土地と歴史をたずねる 和菓子』 中島久枝 柴田書店
『江戸菓子文様』 金沢復一 青蛙房