生粋の東京っ子 鏑木清方と中央区
鎌倉駅で降りて喧噪の小町通りを進んで左に曲がると ”鏑木清方記念美術館” があります。
戦争で新宿矢来町の自宅を失った 鏑木清方 は御殿場に疎開し、鎌倉材木座へ越した後、昭和29(1954)年に鎌倉雪の下へ転居しました。素敵な地名のこの場所が 清方 の旧宅跡です。ご遺族から土地・建物と作品・資料を寄贈された鎌倉市は彼の画業と制作の場を後世に伝えるため、記念美術館として新築します。美術館入口の格子戸門は 清方 在世当時のままで、庭の枝折戸も復元されています。
入口の門の左裏に俳句と鎌倉ハイクを掛けた、俳句の投稿用のハイクポストが置いてありました。
鏑木清方 は明治11(1878)年、神田佐久間町に産れました。
父親は條野採菊(じょうの さいきく)。実家は日本橋堀留町の地本問屋(江戸の大衆本の問屋)でした。現在の毎日新聞、東京日日新聞の創始者の一人です。ジャーナリストであり、劇評や戯作(通俗小説)も手掛ける人情本作家でもあり、後にやまと新聞の社長時代に 清方 に新聞の挿絵を任せるなど文芸に関して大きな影響を与えました。
母方の祖母、婦久(ふく)の生家、甫喜山(ほきやま)氏は江戸累代の家筋で鉄砲洲稲荷神社の社司(神主)でした。 清方 は小さい頃、学校帰りに毎日、祖母が手伝っていた鉄砲洲稲荷神社に寄って御宮番の手伝いをしたり遊んだりしたと随筆”築地界隈”で回想します。文字を分かり始めた頃から 清方 は家にあった草双紙の絵解きを祖母にせがんでいて、絵や文章に深く親しみます。
母親の婦美(ふみ)は浅草の第六天神社の神官、鏑木家の家に産まれます。芝居の見巧者で芸事や芸人が好きで、派手なことを好み寂しいことが嫌いという江戸女の気風を備えた女性です。母親を見て 清方 は自らの芸術の底流にある江戸庶民の生活と趣味、物事の見方考え方を体得したと書き残しています。
母親は引越しが好きだったようです。 清方 自身も「昔の東京人には引越好きの人が多かった。私にしても幼い時から居を移すこと三十回に手が届く」と”明治追懐”で書き残しています。
別荘や仕事の作業場も含めてと思いますが、見つけた資料によると番地等不明なものも多いですが20か所が分かっています。そのうち7カ所が現在の中央区でした。
生まれてすぐ下谷二長町へ引っ越します。その一年後には京橋南紺屋町へ転居しました。
現在の銀座一丁目です。南紺屋町を示すものが無かったので紺屋橋児童公園の写真を撮りました。正確な住所は分かりませんでしたが、公園よりも高知県のアンテナショップ側の一画だと思われます。
南紺屋町へ越した同じ年に築地一丁目の文海小学校の所へ転居します。
小学校の裏門前に家があったそうです。
中央区沿革図集の明治時代前期の地図を見ましたが、今とは道路が違いますし区画も異なります。今の入船橋の斜め位置にあった軽子橋から西側に進み築地橋まで行く手前の左側です。築地一丁目の写真のビルの辺りが正面入り口であったと思われます。南西側が裏門と想像でき、古地図では小路を挟んで民家が並びます。
この地で明治12(1879)年の1歳時から明治18(1885)年の7歳まで暮らします。
隣家には三代目の歌川広重が住んでいて交流がありました。浮世絵を目にする機会があったようです。
新富座跡の説明版です。現在の京橋税務署の位置です。文海小学校裏門前の條野家から150mほどの所です。芝居好きの両親の意向が引っ越した理由の一つでしょう。
日本橋區と京橋區は江戸時代から寺子屋が集中して多い場所でした。明治期、学制が発令され阪本小学校を初めに公立小学校が出来ますが、教育の場として寺子屋を選ぶ親も多い時代。寺子屋も生き残りの為私立小学校となります。運動場のない小学校は淘汰されますが少数は代用小学校として残りました。その中で名門と言われた小学校が鈴木小学校。京橋とも南八丁堀とも鉄砲洲とも書かれますが位置は特定出来ませんでした。今の入船一丁目辺りでしょうか。明治16(1883)年 清方 5歳の時に入学します。鉄砲洲神社にも近く、学校帰りは毎日のように通い祖母と遊んだことは前に書きました。また新富座の周りに住んでいる俳優や芝居関係者の子供たちも沢山この鈴木小学校に通っていて 清方 は机を並べて育ちました。
明治18(1885)年 清方 が7歳の時、木挽町一丁目十一番地へ転居します。中央区沿革図集、明治8年の古地図で見ると今の中央区観光協会のある京橋公園の横です。現住所は銀座一丁目。写真のマンションの一画の南西側に民家が並んでいたようです。明治28(1895)17歳までここで暮らします。
この頃、父の條野採菊はやまと新聞を創刊します。 清方 は鈴木小学校を止めて神田錦町の私立東京英語学校に入学します。13歳になり浮世絵師の水野年方の許に入門させられ通いで稽古しますが上達は難しかったと振り返ります。15歳で 清方 の雅号を授けられ、やまと新聞に挿絵を描き始めます。
この時期、やまと新聞は経営難に陥り、條野家の家計もひっ迫します。その為かどうか、 清方 は母方の家督を相続して、鏑木姓となりました。読みは ”カブラキ” です。
ちなみに、すっとこどっこいは絵のことはさっぱりわからないのに何故 鏑木清方 をテーマにしたかというと、身内に鏑木姓がいるからです。絵は知りませんでしたが昔から名前は知っていました。最近までカブラギと思っていましたが本人に確認すると ”カブラキ” と言っていました。
やまと新聞は三遊亭圓朝の創作を口述筆記して連載していました。その縁で、 清方 が17歳の時、脚気を患い、転地療養を勧められるも、家計に余裕無く困っていると、圓朝は新作の取材に出るが弟子の代わりにと誘ってくれます。東京を出たことの無い 清方 は栃木方面を回って旅先の景色に魅了され、脚気も完治します。肖像画を描くことが嫌いだった 清方 はこの35年後、伝記にも興味を持ち、肖像画は人の内面や人となりを込めて描けばいいと考えます。”三遊亭圓朝像”は重要文化財になりました。
この時期、 清方 は中央区を離れて、本郷湯島方面で少なくとも三度は転居します。そして明治33(1900)年、22歳の暮れに京橋南伝馬町三丁目一番地へ引っ越します。今の京橋三丁目、中央エフエム本社が入居している東京スクエアガーデンの前、写真のビル辺りです。中央区に戻ってきました。
翌明治34(1901)年4月にまた木挽町に移ります。住所は木挽町 一丁目十五番地 。 清方 が7歳から15歳まで暮らした住所は 一丁目十一番地 です。中央区沿革図集の明治30年の古地図によると以前十一番地と書かれていた萬安楼が十一番地から十五番地へ変更されています。広大な敷地の高級割烹店です。その前の位置の住宅らしい敷地は明治8年の古地図と同じように書かれています。 清方 は”時粧風俗”の回顧録で「私が木挽町の萬安の路次に住んでいたころ・・」と書いています。以前の家に戻った可能性が高いと思います。
23歳から28歳までのこの時期に、以前から書き始めていた敬愛する樋口一葉の”たけくらべ”などの口絵や挿絵を描き、尾崎紅葉や泉鏡花と交流し、”金色夜叉”や”婦系図”の挿絵を描きます。
25歳の時、同志だった都筑真琴の義妹・照 と結婚します。 照 は当時17歳、彼女も本当は作家志望でした。式を挙げたのは目の前の萬安楼でした。
鏑木清方記念美術館 に”挿絵画家として独立した頃” と木挽町時代の部屋で仕事をしている写真があります。
歌舞伎を通じて知り合った小山内薫が島崎藤村を伴って木挽町の 清方宅へ訪問し”破戒”の口絵を依頼していった翌年、明治39(1906)年、28歳の暮れに日本橋浜町二丁目、旧細川家邸内二號へ転居します。明治45年までここに住みます。
ここまで住所が分かっていますが場所の特定は出来ませんでした。明治8年の古地図では浜町二丁目に細川邸が書かれています。広い敷地の中央に近い場所に清正公寺がありました。この周りなのは間違いないのですが。
明治30年の古地図では浜町二丁目に細川邸の表記は無く、邸内二號の位置は全くわかりません。明治8年の細川邸の敷地は現在の荒汐部屋も含まれている感じです。その辺りにいた可能性も無くはありませんね。
明治45(1912)年4月に日本橋浜町三丁目一 ぬの十八号へ転居します。34歳です。
明治30年の古地図は浜町三丁目の半分が一となっています。ひらがな表記は見当たりませんでした。
この地は僅か一ヶ月ほどで本郷へ転居、その後牛込矢来町へと越していき、戦後鎌倉へと移ります。浜町三丁目が中央区に住んでいた最後のようです。
清方 の住んだ当時の浜町には建物こそ違いますが、有馬小学校も水天宮もありました。でも現代に現れて46階もあるトルナーレ日本橋浜町を見たらどんな感想をもつのでしょうね。
この写真の絵の具は ”鏑木清方記念美術館” に置いてあった 清方 が使用していた絵の具です。
特に 清方ブルーと言われたブルー系の絵の具は孔雀石(マラカイト)と呼ばれる緑色の天然岩を細かく砕いて粒子の大きさの違いで色の濃淡を出したものと説明にありました。
この現物を見るだけで 清方 の絵に対する繊細さ、表現力、こだわりを感じます。
最初、名前を知っていただけの 鏑木清方 は有名な美人画家だと思っていました。
”築地明石町”は着物姿の美人の背景に外国人居留地であった明石町の洋館の水色の垣根と朝顔が描かれ、”新富町”には書いた当時は既に無い新富座が背景にあります。すっとこどっこいが好きな”朝夕安居”は朝昼晩の町人の生活風景が描かれていますが、それらは全て記憶にあった朝の築地や昼夜の八丁堀界隈で見た人々の生活です。またインタビューで「小説を書きたかった」と答えてもいます。浜町河岸を回顧する”銀砂子”、木挽町界隈に流れていた川の風景を書いた”築地川”、銀座の柳並木などを書いた”褪春記”等多くの随筆を書いた作家であり、挿絵画家や風景画家、浮世絵画家など多才な顔を持っていました。
「私の中にしっかり根を下ろしている心のふるさとというのは、物心を覚えてから明治の三十四・五年まで続いた自分のうちの生活にあるといえよう」
明治のそして下町の記憶を残そうとした いきでいなせな 生粋の東京っ子 でした。
記念美術館の入口の写真の掲載は受付で許可いただきました。館内は撮影不可ですが、この絵の具の展示は他色の岩原石とともに撮影OKとなっていました。