連載小説「Kimagure湊だより」第12話もういちど…Dear中央区

第12話 もういちど…Dear中央区
遠い町の、新しい部屋で、窓を開けて座っていた。
机のうえには、『歩いてわかる中央区ものしり百科』が、ページを開いたままのっている。
私は、ぼんやりとそとを眺めていた。お昼になっても、聖ルカ礼拝堂のメロディが聴こえないなぁ…なんて、ため息をついたりしながら。
ラジオをつけると、ザーっという音がこぼれおちた。まだ、84.0に合わせたままだ。私の気持ちと、まるで同じみたい…と思う。メモリはあの町を示したまま、きこえてくるのは、淋しさと恋しさばかり…。
私は、仕方なさそうに肩をすくめ、席を立った。コーヒーでも淹れようと思って。そして、キッチンから戻ると、窓枠に、黄色いものがとまっていた。
一瞬、私は自分の目をうたがった。
「小鳥ちゃん?」
私は、持っていたコーヒーをうっかり、こぼしそうになる。
「どうしているの?」
と、言ったあとで、黄色い小鳥ちゃんが笑っているのがわかった。
「のどが渇いちゃった。ミルク、いただけるかしら」
と、言う。
私は、うれしさで胸をいっぱいにしながら、うん、とうなずいたまま、その場に立ち尽くしていた。
黄色い小鳥ちゃんは、まるではじめて見たみたいに、
「それ、なんの本?」
と、私にきく。
「『歩いてわかる中央区ものしり百科』だよ」
私は、とっておきの本を紹介するような気持ちで、そうこたえる。
「見せて」
「いいよ」
黄色い小鳥ちゃんは、ちょこんと下りて、本のうえにのっかった。
いつかの日も、私たちはこんな言葉を交わした…。
「なになに?」
と、言いながら、黄色い小鳥ちゃんは、ウォーキングコースの順番ごとに、①から順々に読み上げていった。まるで、小鳥ちゃんじしんがコマになって、すごろくのうえを歩くみたいに。
ずっとずっと何年もまえの、おなじような昼下がり、黄色い小鳥ちゃんはこんなふうに、私の部屋にやってきたのだ。
この日もおなじページが開かれていた。築地・明石町エリアのウォーキングコースのページだ。
「どれどれ…?」
と言いながら、①の新富座跡から⑮の雙葉学園発祥の地まで、ひとつひとつ読み上げてゆく。
「しん、とみ、ざ、あと…」
②は靴業発祥の地だ。
「くつ、ぎょう…」
と、言いかけて、ちらっと私を見上げると、
「かぎょう…」
と、誇らしげに言い直してみせた。
前に、黄色い小鳥ちゃんが読み方を間違えたのを、私が遠慮がちにおしえてあげたことを、小鳥ちゃんはちゃんと覚えていたみたい。
私は、肩を揺らして笑いだす。
黄色い小鳥ちゃんも、おなじように笑いだした。

しょんぼりしている私を見兼ねて、黄色い小鳥ちゃんは、私を外に連れ出してくれた。
この町のなかで、一番高い建物を探して、あがってみることにする。
高いオフィスビルをみつけた。最上階は一般に公開されていて、フロアのところどころに大きな窓があるので、ひととおり見渡すことができる。
「中央区はどっちかなぁ!」
私は、はやる気持ちをおさえながら、薄暗い廊下をうろうろする。
黄色い小鳥ちゃんが、こっちじゃない?と言うので、そちらの窓のまえに立って、目をこらした。すると…
「あ!聖路加ガーデンだ!」
ツインタワーの、片方だけが見えたのだ。
私は、うれしさのあまり、歓声をあげる。窓に顔をちかづけて、ちからいっぱい指さした。ガラスが、ぼんやりと曇ってしまうくらいに。
「2022年に東京ミッドタウン八重洲ができるまで、中央区でいちばんの高さを誇っていたのよ。オフィス棟の聖路加タワーは220.63m、レジデンス棟は146.1mだったかしら」
「やっぱり、聖路加ガーデンって高いんだなぁ!」
私はすっかり感心してしまう。
中央区のどのまちを歩いていても、聖路加ガーデンを探せば、帰れるように思っていた。それだけ、私のなかではシンボルだった。
ここから見える聖路加ガーデンは、ちいさくちいさく、くぐもった空に溶けだしそうに、像をにじませていた。それでも、大好きな聖路加ガーデンを、見間違えるはずはない。
「あれ?となりの、もしかして佃のリバーシティ21じゃない?」
私はなおも、湧きたつように言う。ただ、何棟もある高層マンション群のうち、見えたのはたったひとつきりだった。
佃は、徳川家康とのご縁で江戸に下った、摂津国西成郡佃村の漁師たちが築いた島。代々、白魚献上の御用をつとめ、真冬から春先にかけて、篝火をたいて行う白魚漁は風物詩で、数々の錦絵にも描かれている。
今は、江戸から残る町並みと、近代的な高層マンション群とのコントラストが、訪れる人々を魅了している。
「きっと、あの下のほうに、隅田川が流れているんだね」
そう言いながら、なんども歩いた、隅田川テラスのことを思う。そこから見えていた、愛おしい景色たちのことを思う。
信じられないくらい、遠くなってしまったけれど…。
それでも私は、大好きな中央区が、ちゃんとここから見えたことに、胸をいっぱいにした。
「もし、小鳥ちゃんのように飛んでいけたらなぁ…」
と、ふいにつぶやく。
「あら」
と、黄色い小鳥ちゃんは振り向いた。
「私なら電車をつかうわ」
あっさりと言ってのける黄色い小鳥ちゃんは、
「え、まさか今日、電車できたの?」
「もち。とても飛べる距離じゃないわ」
と、言うのだった。
それから、埠頭のほうにも行ってみた。なにかの工場の、東京湾の水がパタパタと打ち寄せるヘリに立って、金網ごしに、対岸をみつめた。
すると、そこにも見覚えのある建物をみつけたのだ。
「あれ、晴海じゃない?」
と、私は身をのりだして言う。
「そうね、晴海ね」
と、黄色い小鳥ちゃんは、なんともなしにうなずいた。
私はふたたび、しんみりとする。
「このフェンスさえ、なかったら…」
そう言って、金網をぎゅっとつかんだ。
すると、黄色い小鳥ちゃんは、ぷっと吹きだすのだった。
「なにがおかしいの?」
私は、ふくれた顔をする。
黄色い小鳥ちゃんは、しばらく黙っていたけれど、ふと私を振り返り…。
そして、とてもゆっくり、言ったのだ。
「見えて、いるわよね?」
と。
私は意味がわからず、黄色い小鳥ちゃんをみつめかえす。
すると小鳥ちゃんは、もういちど、言った。
「見えて、いるわよね?」
と。
「うん…」
私は、ぎこちなくうなずく。
「近くない?」
「え?」
「だって、見えているんですもの」
「…」
私は、目をぱちくりする。そして…。
どちらからともなく笑いだす。
目と目を合わせながら、肩を揺らし、お腹を抱え、なんだか無性におかしくなってしまった。それなのに、なぜか涙が出てきた。笑いすぎたからか、胸にたまっていた、中央区への愛おしさが、あふれだしたのか…。
「ねぇ、小鳥ちゃん」
ひととおり笑ったあと、私はすこし真面目に、黄色い小鳥ちゃんに話しかけてみる。
「今日なら、黄色い小鳥ちゃんに、きいてもいい?あの質問… 」
小鳥にぜったいにきいてはいけないこと…それは、どこから来たの?ということと、どうしているの?ということ。いつかの日、黄色い小鳥ちゃんは、そう言っていたっけ。でも、こんな今日なら、その質問の意味はちがう。
黄色い小鳥ちゃんは、ちらっと私をみると、
「どうぞ」
と、言う。
「黄色い小鳥ちゃんは、どこから来たの?」
「中央区に決まってるでしょ」
「じゃあ…どうしてここにいるの?」
黄色い小鳥ちゃんはちいさく一回まばたきをすると、
「あなたを迎えにきたのよ」
と、言った。
「小鳥ちゃん…」
そのあと、私と黄色い小鳥ちゃんは、ころがってたブロック塀に座って、いつまでも海の向こうをみていた。さらさらと波がメロディを奏でるような、淡い日暮れに染まりながら…。
「晴海はいつの時代も、未来への架け橋ね」
「はじめは、月島第四号埋立地って呼ばれていたんだよね」
「そうね、埋め立て工事が完了したのは、昭和6年だったわね」
いつも晴れた海を望む、という想いを込めて名づけられた町。
「幻のオリンピック、というのがあったね」
「えぇ…昭和15年。その年は、日本万国博覧会も予定されていたわ。勝鬨橋は、そのメインゲートになるはずだった…。いずれも、戦争のために開催できなかったけれど」
「勝鬨橋も、苦いオモイしているんだね…、あんなふうに見えても」
「いろいろあるものよ」
「…でも」
と、私は気づいたように両手をたたく。
「今度の2020大会で、勝鬨橋はちゃんと夢を叶えたね。だって、晴海の選手村から、世界中の選手たちが、勝鬨橋を渡って競技会場に向かったんだもん。メインゲートになるっていう夢をね!」
「ほんとにそうね」
と、黄色い小鳥ちゃんは微笑む。
「永い永い眠りから覚めたようね」
「夢をみてから叶えるまで、80年も待ったんだね」
「それだけ、世の中が平和になったということなのかしら」
「そうだね…」
私たちは、あの景色の向こうにきっとある、その橋のことを思う。
「でも、待ってたのかしら…」
ふと、黄色い小鳥ちゃんは言う。
「待ってたんじゃなくて、回転し続けていたのかもしれない…。きっとこの町は知っているのよ。振り向かずに走りつづければ、必ずまた、時がめぐってくるということ…」
「その道は、いい未来につながっているのかな」
「きっとね…たどりつくべき場所に、続いているはずよ」
「それなら…」
私は遠い空をみつめ、
「振り向いてばかりじゃ、いけないね…」
と、つぶやいた。
それは、黄色い小鳥ちゃんなりの、私へのエールのように思えた。
「中央区には、まだ宿題が残っているはずよ」
ふいに、黄色い小鳥ちゃんは、静かにそう言った。そして、そっと私に微笑んでみせる。
私はうなずくと、体の中に、元気が戻ってくるのを感じた。
「もちろん、それはそれは、た~っぷりとね!」
そう言って、両手で大きく山を描いてみせた。
「それって、鐵砲洲稲荷神社の富士塚くらいかしら」
とつぜん、黄色い小鳥ちゃんはいたずらっぽく言う。
「ん?」
と私は考えて…鐵砲洲稲荷神社の富士塚が、何メートルだったか思いだせないことに、ひやっとする。これ、中央区観光検定で出題されそうだもの。
黄色い小鳥ちゃんは笑いだして、
「けっきょく、いつだってあなたは、中央区のことばっかり考えているんだわ」
と言う。
「中央区愛称道路に、新しい通りができたわよ」
「えっ、ほんとうに?」
「江戸バスのルートが変わったわよ」
「えっ、ほんとうに?」
「あなたの一番好きだったお気に入りの道…」
息をつめて、黄色い小鳥ちゃんをみまもる。
「なにも変わらないわ」
「なぁんだ~!」
私はほんのすこし、安心する。
「ちょっと目をはなしたすきに、あの町はどんどん変わってしまうんだから」
「ちゃんと、みつめていなきゃね…」
「そうよ、見えるものと、見えないもの、その両方をね」
「うん」
変わるもの、変わらないもの…。
いつのときも、はじめて中央区に出会うような、そんなキラキラした気持ちでいたい。
「春のイベントもたくさんあるわよ」
甘酒横丁桜まつり、日本橋桜フェスティバル、春の名橋「日本橋」まつり、東京アートアンティーク。
「今年こそ、大観音寺の花まつりに行ってみたいな!」
「あなた、人形町の銘菓がおめあてなんじゃないでしょうね?」
と、黄色い小鳥ちゃんは目を細くする。
「まさか!私はちゃんと、お釈迦様のお誕生日をお祝いしたい気持ちいっしんで…」
そこまで言いかけて、私たちは顔を見あわせて笑いだす。
「隅田川テラスも歩こうね」
「もち」
「聖路加礼拝堂のメロディも聴こうね」
「もちもち」
「それから…」
私は思いをめぐらせて、
「鐵砲洲稲荷神社の富士塚も、何メートルだったか見にいかなくちゃね!」
そう言うと、黄色い小鳥ちゃんは笑いだした。
「行きましょうよ、中央区に」
「うん、行こう!」
私はにっこり、おおっきくうなずいた。
もうすぐ、桜のつぼみもほころびはじめる。
春の中央区には、わくわくした気持ちがあふれている。
つづく

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第237号 令和7年2月15日