町娘みなとっこの目黒不動参り【江戸八丁堀の架けた太鼓橋】

湊っ子ちゃんは、旅支度をして…
東京都目黒区にある、「行人坂(ぎょうにんざか)」にやってきました!
江戸時代、江戸の町人たちは、目黒不動尊への参詣を楽しみのひとつとして、四季折々の風物とあわせ目黒へと足を向けました。
江戸市中から白金を通り、行人坂を下って太鼓橋を渡る。
これが、その頃の道のりです。
「行人坂」は、江戸の初期、奥州湯殿山の高僧行人「大海法師」の開いた道。家康から「大圓寺(だいえんじ)」の寺号を与えられました。寺にはしだいに行者たちが集まり、修行に励んだことから、いつからか「行人坂」と呼ばれるようになったとか。
また、行人坂は、農作物を運ぶ生活の道でもあったのです。
目黒あたりでは、大根、ナス、瓜などが作られていたそう。
この急な坂道をせっせとのぼった野菜たちは、
京橋の大根(だいこ)河岸青物市場や、神田の多町市場まで運ばれていったのかなぁ…?

広重の描いた椎の木は、いまもちゃんと太鼓橋のたもとにありました。
行人坂は、なんといっても急勾配!
全長240mで、起点と終点の高低差は、なんと18.2mもあるんです。
だからこそ、坂の上は「夕日の岡」と呼ばれるほど、景色が美しかったのです。
とおく富士山と紅葉を望み、秋にはその名のとおり夕日がきれでした。
歌川広重の浮世絵「江戸自慢三十六興 目黒行人坂富士」や「名所江戸百景 目黒太鼓橋夕日の岡」にも描かています。
夕日の岡には「富士見茶屋」があり、江戸から歩いてきた参詣客や旅人は、ここで一休みしたのです。
「江戸名所図会」には、「夕日岡行人坂」「富士見茶屋」が記され、長谷川雪旦の筆によると、縁台では名物の甘酒や、たけのこ、栗飯などを味わえたそうです。また、枇杷薬湯というものもあったそう。

夕日の岡にて、湊っ子ちゃんもお団子をぱくっ!
行人坂を下ると、目黒川に出会います。そしてここには、「太鼓橋(たいこばし)」が架かっています。
橋の起こりは、全国を巡りながら一千体以上の仏像を彫ったという、「木喰上人(もくじきしょうにん)」によるものだとか。そのあと、洪水や火事などもあり、何度も架け替えられたことでしょう。
現在は、鉄筋造りになりましたが、江戸時代のその昔は、「雁歯橋(がんしきょう)」という造りの木橋でした。
じつは、この「太鼓橋」、江戸八丁堀の商人たちが、資材を出し合って築いた橋なのです。
町方の書き上げによると、
北八丁堀岡崎町施主 森田屋茂兵衛
鉄砲洲屋舗 御諭昔講万人講中
宝暦十四甲年五月ヨリ
明和六年丑年九月納
とあります。
「岡崎町」は、現在の中央区八丁堀にあった旧町名。
「鉄砲洲」とは、中央区湊に御鎮座する、「鐵砲洲稲荷神社」のことですね。その昔は、「湊稲荷」と称され、海上交通の玄関口「江戸湊」を見守る神様として水夫たちから厚く信仰されました。
そして、鐵砲洲稲荷神社は、南北八丁堀の産土神。
当時の八丁堀といえば、与力・同心の町であるのと同時に、材木問屋、炭薪問屋、藍玉問屋もおおく集住していました。町の四方を楓川、八丁堀、亀島川、日本橋川に囲まれており、水運の中心地でもあったのです。
ですから、八丁堀は木材につよかったわけです。
約6年の歳月をかけ、明和6年(1769)に完成したのです。

広重の浮世絵や、江戸名所図会に太鼓橋が描かれるのは、江戸後期の天保から安政の頃です。
石造りのアーチ型で、それこそ太鼓橋の名にふさわしく、その美しさから江戸名物のひとつでした。
とはいえ、どうして江戸の町民が太鼓橋を?
江戸の人たちにとって、お不動様(目黒不動尊)へ通じる道、という愛着や、馴染みの道だったことも理由のひとつなのでしょうか。
けれどもうひとつ、気になるエピソードがあるのです。
「八百屋お七の火事」です。
寺小姓の吉三(きちざ)を恋慕い、一目会いたいばかりに、放火をしたお七。
吉三はその後、僧侶となり西運と名を改めます。
そして、お七の菩提を弔うため、目黒不動尊から浅草観音堂までの往復十里(約40km)の道のりを、夜から明け方まで念仏を唱えながら、隔夜日参一万日の行を、54年かけて成し遂げました。
ホテル雅叙園東京のエントランスには、西運が身を清めた井戸が残っています。
明治の頃まで、ここには明王院がありました。
さて、その道中、西運は、江戸でたくさんの人々に浄財を寄進されたといいます。
それを基金として、行人坂に敷石の道をつくり、目黒川に太鼓橋を架けた、ということなのです。
と、いうことは…。
湊っ子は想像します。
西運みずから語らないまでも、ことの経緯はしぜんに人々の耳に入ります。
江戸っ子が、そんな話をきいてほおっておくわけがありません!
西運の心意気に、惚れ込んだにちがいないのです。
「ちくしょう、泣かせてくれるじゃねぇか!
その一万日の行ってやつは、あの川(目黒川)を渡るんだろう?
それなら今架かってるような、安普請なんかじゃあ、だめだ。
ここはひとつ、立派な橋を架けてやろうじゃあ~ねえか!」
さらに、橋を架けるのは、江戸っ子にはお手の物!
江戸市中には数百の河岸があり、網目のごとく張り巡らされた水路をつたって、毎日大量の物資が荷揚げされていたのです。
そして、その川や水路にはそれこそ、町人たちの手によって、数えきれないほどたくさんの橋が架けられていました。
「おいらたちにまっかしとけいってんだ!!」
と、腕をまくりあげる姿が見えてくるようです。
…あれ?
とつぜん、湊っ子は首をひねりました。
…ちょっと年代が合わないかも…?
八丁堀の人たちが橋を架けた頃、西運の一万日の行はもうすでに終わっていたのでは…?
とほほ…。
しかも、橋の完成した3年後の明和9年(1772)には、江戸大火「目黒行人坂の火事」があったはず…。
太鼓橋は、いうまでもなく、焼けたことでしょう…。
ふたたび、とほほ…。
歴史を紐解くのって、むずかしいですね。
でも、そこがおもしろいところ。
これは宿題にさせてください。

あ…、さんま。
そういえば、目黒といえば、さんまですね。
ここにもおもしろい話があるのですが、ちょっと長くなってしまったので、また今度…。
江戸までの道のりは遠いなぁ…。
目黒不動尊でお参りをしたら、夕日の岡で一休みして帰ろう…。
町娘みなとっこは、オフィスビルにはさまれた行人坂で、澄み渡った空の向こうに、江戸のおもかげを探しました。

もうすぐ、春ですね。
♪参考文献「歩いてわかる中央区ものしり百科」中央区観光協会/「坂道ウォーキングのすすめ」目黒区健康推進課/「目黒区史跡散歩」山本和夫 学生社 1992年/目黒区文化財ホームページ/目黒区教育委員会設置の案内板/ホテル雅叙園東京設置の案内板/天台宗東京教区ホームページ/文化遺産オンライン/東京都中央卸売市場ホームページ/国立国会図書館デジタルコレクション/東京都立図書館ホームページ/鐵砲洲稲荷神社ホームページ/「中央区立京橋図書館 郷土室だより第50号 八丁堀雑記10」昭和60年/「大八丁堀展~よみがえるまちの歴史~」中央区郷土資料館 令和5年

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第239号 令和7年2月23日