湊っ子ちゃん

町娘みなとっこの目黒不動参り【日本橋魚河岸が野菜をつくる?】

旅支度をして、江戸市中から、

目黒不動尊をめざして歩いている湊っ子ちゃん。

途中で、道に迷ってしまい…。

 

すずめが一羽、飛んでゆくのをみつけて、

追いかけていたら、竹ばやしにたどりつきました。

 町娘みなとっこの目黒不動参り【日本橋魚河岸が野菜をつくる?】

ここは、「すずめのお宿緑地公園」。

東京都目黒区碑文谷の、

静かな住宅街のなかにあります。

 

江戸の後期から昭和のはじめまで、

目黒は「たけのこ」の名産地でした。

太く、柔らかく、おいしい!と評判で、

練馬の大根、千住のねぎ、と並び、

「目黒のたけのこ」として名を馳せたのです。

 

公園のあるこの辺りには、竹ばやしが広がり、

たくさんのすずめが住んでいたそう。

 

 町娘みなとっこの目黒不動参り【日本橋魚河岸が野菜をつくる?】

あっ、さっきのすずめ…。

すずめは、なにか忙しそうに、

蓋のついた木の桶をふたつ、天秤棒にぶらさげていました。

 

「たったいま、江戸は日本橋魚河岸から戻ったんですよ」

 なつかしい地名をきいて、湊っ子ちゃんははっとしました。

「日本橋魚河岸に?賑わっていたでしょう?魚を仕入れたんですか?」

「いいえ、じつは違うんですよ!」

 

すずめは、江戸市中と近郊農村をむすぶ、

貴重なお話をきかせてくれました。

 

目黒のたけのこ生産は、200年前にまでさかのぼります。

 

江戸は鉄砲洲、幕府御用の廻船問屋、山路治郎兵衛勝孝が、薩摩藩の特産品である猛宗竹(江南竹)の株を取り寄せたのがはじまりでした。

当時、治郎兵衛が別荘をかまえていた、品川戸越村(いまの品川区武蔵小山)には、特産品がなく、憂慮していたのです。

農業振興を目的とし、別荘地にて猛宗竹の栽培をはじめました。

その後、たけのこ栽培は、目黒・品川・世田谷へと広がりを見せ、村人の生活を助けることにつながりました。

 

ときは寛政元年(1789)です。

 

「江戸鉄砲洲」は、いまの東京都中央区湊・明石町・築地にまたがる隅田川沿いの一帯です。

江戸のごく初期に埋め立てられた地。

その地形が鉄砲(火縄銃)の形に似ていること、または、幕府の鉄砲方がここで試し打ちをしたことなどが、地名の由来となっています。

江戸鉄砲洲は、まさに「江戸湊」の玄関口。

 

弁才船は海をこえ、塩・米・油・炭など、

諸国の恵みが、みな江戸鉄砲洲をめざして集まったのです。

きっと、治郎兵衛は、諸国の名産に触れ、また、

それぞれの文化を連れてきた水夫たちと言葉を交わすなかで、ヒントを得たのかもしれないですね。

 

「目黒のたけのこ」は、江戸の中心部で売られたといいますから、

きっと、京橋の大根(だいこ)河岸青物市場にも並んだのでしょうね!

 

時代の流れとともに、目黒からたけのこの姿は消え、

目黒区内でその面影を残す場所は、

この「すずめのお宿緑地公園」の竹ばやしだけです。

 

 町娘みなとっこの目黒不動参り【日本橋魚河岸が野菜をつくる?】

「ところで、さっきすずめさんの言っていた、日本橋魚河岸のお話って?」

 

”店中(たなじゅう)の尻で大家は餅をつき”

という川柳をご存じですか?

 

江戸時代、江戸近郊の農家は、

きそって江戸市民の排泄物を必要としたのです。

田畑の肥料にするためです。

というのも、江戸市民はたっぷりと栄養をとっていました。

お米は三食、魚は毎日、卵も鶏肉も食べました。

ですので、排出物も栄養価が高かったのです。

値段のうえでも、高く売れました。

 

そんな風習を、おもしろおかしく詠んだものですね。

大家さんは、店子(たなこ)がたくさんいるほど、

下肥料で懐があたたかかったわけです。

 

また、日本橋魚河岸で毎日のように廃棄される、

臓腑(はらわた)や尾びれ、骨までも、

田畑にとっては貴重な肥料でした。

 

明治35年刊の「文芸界」における、

「夜の東京」号には、その様子が記されています。

 

毎日ガス灯がともる頃になると、目黒や渋谷あたりから、

肥桶(こえたご)をかついだ農夫が、

つぎつぎに日本橋魚河岸に集まってきたそうです。

河岸には、堆(うずたか)く魚の残骸が積まれていて、

それをきれいに拾い集めてゆく光景は、

ほかの町では見られない不思議な光景だったといいます。

 

日本橋魚河岸は、近隣農村にとっても、

縁の下の力持ち!の役割を持っていたのですね。

まさに、資源が循環していたのです、

江戸時代って、やっぱりエコですね。

 

 町娘みなとっこの目黒不動参り【日本橋魚河岸が野菜をつくる?】

こんな看板をみつけましたよ。

江戸時代の人たちが食べたたけのこは、

今もこうして、ちゃんと芽をだしてくれるのですね。

 

竹ばやしのなかに建つ古民家「旧栗山家」は、

江戸時代中頃の庄屋です。

屋根の茅を蒸す、心地よい香りが漂っています。

ふとのぞくと、お座敷にはひな人形。

 

サラサラと揺れる笹の葉から、

まぶしく西日が降りそそいでいました。

 

静かだなぁ・・・。

 

そうそう…。

京橋には竹河岸もあったっけ…。

もしかしたら、目黒の竹も、竹河岸に並んでいたのかも…。

七夕には、江戸市中を練り歩く、竹売りの姿もあったそう

歌川広重は、「名所江戸百景」に、

「市中繁栄七夕祭(しちゅうはんえいたなばたまつり)」を描いています。

屋根やねのうえに、高く掲げられた竹の、

どこまでも続く美しさ。

風になびく、ほおづき、ひょうたん、大福帳…。

 

ぐるぐるぐる…。

湊っ子ちゃんは、お腹が減ってしまいました。

 

目黒不動尊の参道では、

名物の「たけのこ飯」を出す料亭があったそう!

 

湊っ子ちゃんは、元気をだして、

ふたたび歩きはじめました。

 

 町娘みなとっこの目黒不動参り【日本橋魚河岸が野菜をつくる?】

軒先には、竹でつくった花器。
春ですね。

 

 

 

♪すずめのお宿緑地公園
東京都目黒区碑文谷31122

♪参考文献「みどりの散歩道07 碑文谷の歴史と自然を訪ねる径」目黒区都市整備部みどりと公園課 平成29/区報「月刊めぐろ 歴史を訪ねて」目黒区/「江戸東京野菜通信」ホームページ/「JA東京中央会 江戸東京野菜について」ホームページ/「中央区区内散歩(二)」中央区企画部広報課 平成7年/中央エフエム84.0「京橋区宝町梅吉ぼっちゃんの今昔よもやま噺」

 

 

 

 

 町娘みなとっこの目黒不動参り【日本橋魚河岸が野菜をつくる?】

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第240号 令和7年3月3