日本橋白木屋とネギ山坂【町娘みなとっこの目黒不動参りシリーズ】
さて…。
ここは、渋谷区広尾にある、ちいさな坂道。「ネギ山坂」といいます。
昔、この辺り一帯、ねぎ畑だったことに由来するのだとか。
じつはこの坂道、日本橋白木屋と、深い関わりがありました。
日本橋白木屋(しろきや)といえば、越後屋や大丸とならぶ、江戸を代表する呉服問屋の老舗。
初代大村氏は近江の出身で、もとは材木商を営み、その後小間物屋を経て、寛文2年(1662)、日本橋通2丁目に呉服屋を開きました。
その繁盛ぶりと賑わいは、歌川国貞「白木屋店頭之図」にも描かれています。日本橋通町筋の華やかさと、当時をしのぶ座売りの風景。
ネギ山坂をのぼりきったところに、
「東北寺」というお寺があります。
日本橋白木屋で働いた、江戸時代の店員さんたちが、
ここに眠っているのです。
創立者大村氏一門のこころざしにより建立された地蔵菩薩を囲むように、
126基ものお墓が並んでいるのだそう。
無縁仏になっていた店員さんたちを、文化6年(1809)より、
すこしずつ探しあて、一ヶ所に集めたものなのです。
「渋谷の坂」(渋谷区教育委員会 昭和60年刊)には、このようにあります。
以下抜粋
‐江戸時代の店主と店員との人間的きずなの強さに、ほのぼのとした人情が感じられる。‐
江戸では度重なる大火がありました。
それに加え、文化4年(1807)には、永代橋が崩落するという未曾有の大事故がありました。
そういった災害により、犠牲になった人々…。
そして遠いお国から出てきた店員さんも多くあったでしょう。
店主は、時に埋もれかけた愛おしむべき面影を、そっと手のひらに掬いとったのです。
坂下には、古い住居表示が残っていました。
白木屋といえば、もうひとつ、忘れたくないエピソードがあります。
江戸のまちは大半が埋立地。よい井戸水が出ず、困っていました。
そこへ、私財を投じて井戸掘りに着手したのが、
白木屋二代目大村彦太郎です。
のちに「白木名水(しろきめいすい)」とまで謳われ、将軍や大名にも献上された清水。
江戸の人々をちからづけ、生活のうえでも支えました。
「名水白木屋の井戸」跡を示す石碑は、東京都指定文化財(旧跡)になっています。
坂の途中で、ふうわりと、スモークツリーが花柄を降らせて…。
チロリアンランプが夏のおとずれを告げていました。
路地をでれば、そこはもう明治通り。
江戸湊からとおく離れたこの街で、またひとつ、
時空を超えたお便りを受けとった、町娘みなとっこでした。
♪参考文献「歩いてわかる中央区ものしり百科」中央区観光協会/「渋谷の坂」渋谷区教育委員会 昭和60年刊
♪名水白木屋の井戸
東京都中央区日本橋1-4-1 コレド日本橋敷地内
※工事中により見学できない場合がございます
♪ネギ山坂
東京都渋谷区広尾1丁目5番と7番のあいだの坂道
※坂名を示す標柱等は設置されていません
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第249号 令和7年6月26日
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