築地場内跡地で発掘中?
築地市場旧青果門前の交差点から、北側の歩道を電チャで勝どき方面に向かう途中の出来事です。
青い自転車通行帯を上ります
いい天気。見えるのは勝どきのタワマン
築地大橋を目の前にして、歩道の左側面に存在していた工事の白い壁が途切れて、壁がアクリルになり、その先で出入りできるゲートになっている箇所がありました。
柵の中を覗いてみると、TOP画像に掲載しているマンホールの下に煉瓦製の複数の建造物と、コンクリート製?の横管が見えました。丁寧に周りの土を取り除いており、遺跡を発掘をしてるのでしょうか。
遺跡の形状は、まるで江戸時代の上水井戸の埋枡と木樋のような形をしているようです。
江戸時代のそれは、煉瓦やコンクリートではなく木製なので、作られたのは明治以降のものだと思われます。
煉瓦製の建造物と横管は繋がっていないように見えます。レンガ製の建造物はマンホールなので、下水設備でしょうか。
角度を変えてみる(奥に見えるのは聖路加タワー)
"大江戸今昔めぐり"というアプリで、江戸時代と現代の地図を重ねて該当の場所を見ると、この場所は元は尾張徳川家の屋敷があった所のようです。
この赤丸あたり
右上にある二つの池(春風の池、秋風の池)は松平定信の下屋敷だった浴恩園。
松平定信といえば「まさまる」くん。つい"べらぼう"を引きずってしまうw
その後海軍省が設置された場所ですが、今回発掘している遺跡の場所は浴恩園からちょっとずれてます。
震災以前の「海軍省」付近の空撮(市場ができる前)
写真はこちらのサイトから拝借しました。
参考:https://smtrc.jp/town-archives/city/tokyo-bay/p02.html(三井住友トラスト不動産)
隅田川側の上空から撮影した海軍省時代の写真です。
現在、旧築地場内は隅田川沿岸から新大橋通りまでのエリアですが、当時の海軍省は築地川本流部分までが敷地でした。
采女橋のところに「海軍兵学寮跡」「海軍軍医学校跡」があるので、ものしり百科で観光検定の勉強していれば、連想できる範疇でしょう。検定まであと二週間(2026年1月17日現在)か。こんな長文書いている暇があれば、勉強すればいいのに、テスト勉強中に部屋掃除をしてしまう学生みたいw
つい思った事を書いてしまう。えっと左側が尾張徳川家の蔵屋敷があった場所で大きな池があります。
今期のものしり百科P157の「波除神社の天水鉢・獅子頭」の項で、「築地市場の南半分には、尾張徳川家の蔵屋敷があり、米穀や尾張の特産品などが定期的に運び込まれていた。天水鉢は(略)尾張藩船の無事を祈願して1838年奉納したもの」と記載があります。
今回発見した遺跡はこの大きな池のあたりなので、おそらく海軍省時代のものではなく、直近の築地市場の設備だったのではないかと思われます。(断定してないので、違っても謝まりませんw)
築地市場が正式に開場したのは昭和10年。日本橋にあった魚河岸が関東大震災で被災したことで震災後1923年12月に築地に移転しました。この尾張徳川家の池はもちろん、浴恩園の池も埋めて市場が建設されました。なんていう乱暴なことを・・。
恐らく、明治維新以降近代化が進んいでた時代、封建的な文化で育まれた大名屋敷の庭園に価値がないと当時判断されたのでしょう。(憶測)
ただ埋めただけなので、今でも浴恩園の遺跡が残っており、現在調査をしているようです。
今後の計画や遺跡の調査結果等、こちらの東京都のサイトにまとめられてます。
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/machizukuri/machi_project/toshi_saisei/saisei08
下部の方に「埋蔵文化財試掘調査結果等について」があります。
報告書もたくさん掲載されてます。ざっと見た感じ、今回発見した発掘した場所のことが書いてないので、現在調査の進行中なのかもしれません。ちゃんと読んでないから、書いていたらごめんなさい(ここでは謝っておく)
ものしり百科にもP85とP134に掲載されてますが、築地場内市場跡地は「ONE PARK × ONE TOWN」という整備計画にて多機能型スタジアムの建設が発表され、着々と進められているようです。
恐らくもう誰にも止められないですが、できれば浴恩園として復活させて欲しいなと個人的には思ってます。
そして復活を本気で頑張っている方もいるようです。
旧築地市場に眠る歴史的名園「浴恩園」を再生させる都民・国民の広場
浜離宮の目と鼻の先なので、ふたつもいらんわ、ってことになりそうですが。
より右側方面(勝どき橋が奥に見えます)
ってことで遺跡フェチの方、是非行ってみてね。
以降も築地のネタを続けます。
今回はこれまで!
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