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■中央区歴史逍遥〈12〉 電信のはじまり ~使われた電信機は~

 ■中央区歴史逍遥〈12〉 電信のはじまり ~使われた電信機は~

 明石町に「電信創業之地碑」が建っている。記念碑には「明治2年9月19日(1869年10月23日)、横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた傳信機役所(東京伝信局)を結ぶ約32㎞の電信線架設工事が開始され、同年12月25日に業務を開始した」とある。

 役所名が「傳(伝)信」であり、「電信」でないところが時代背景を表しているようだ。当時の運上所は現記念碑の設置場所でなく、東側の料亭「治作」辺りで、運上所跡碑が建っている。

 横浜には昭和38年12月25日に日本電信電話公社が設置した「電信創業の地碑」が横浜地検前(横浜市中区日本大通)にある。

150年前に使われた、ブレゲ指字電信機

150年前に使われた、ブレゲ指字電信機 ■中央区歴史逍遥〈12〉 電信のはじまり ~使われた電信機は~

【写真】ブレゲ指字送信機(左)と受信機(NTT技術史料館)

 築地・横浜間で我が国初めての電信事業に使われたのは、ブレゲ指字通信機であった。

 ブレゲ指字電信機は、フランスのブレゲ社が19世紀に作った通信機。仕組みは送信機のレバーを回転させて目的の文字を示すと、受信機の針が回転し、文字を指すようになっている。

 操作には特別の訓練を受けなくても使える利点があったが、受信側では文字を指す針から目が離せないという難点があった。そのため、明治5年(1872)にはモールス方式電信機に取って代わられた。(参照:郵政博物館HP)

 ブレゲ社は1775年、パリで創業した時計メーカー。創業者の孫が1870年に電気通信で成功し電気事業に専念した。その後、スウォッチ・グループ下で高級時計ブランドとなった。

明治初期の明石町と明石橋

明治初期の明石町と明石橋 ■中央区歴史逍遥〈12〉 電信のはじまり ~使われた電信機は~
 ■中央区歴史逍遥〈12〉 電信のはじまり ~使われた電信機は~

 明石町にあった運上所辺りを描いた明治初期の錦絵が残っている。右絵は明石町から芝浦方面を望んだもの。左の建物が運上所と電信役場で、電信柱から電線が引かれている様子がうかがえる。その前を流れる川は鉄砲洲川で、架かる橋は明石橋。この付近の情景は『江戸名所図会』や『名所江戸百景』にも描かれている。

 現在は川やその地先も埋立てられ、明石橋も撤去されて、その面影は全くないが、これらの錦絵から、150年前の近代東京風景がよみがえってくるようだ。(@AM)