今はなき「逓信省」が銀座の外れに建っていたお話

タイトル通り、TOP画像の建物が、かつて中央区銀座の外れに建っていたというお話です。

現在、内閣統轄の下で国の行政事務を行う中央官庁の建物は、千代田区の霞が関に集中して建てられてます。
今回は、令和を生きる読者の諸君に、中央区に中央官庁の壮大な建物があった事をお伝えしようと思う。

タイトルにしているが、この建物の正体は「逓信省(ていしんしょう)」

「逓信」という言葉、2013年8月まで大手町に「逓信総合博物館」があったので、それで記憶している方もいると思われますが、現代では使われず、死語と言っても過言ではないだろう。

逓信省の歴史を調べてみましたが、組織の統廃合が激しく、整理するのがめんどくさく、GoogleのAIによる概要で作成された文面を、内容に間違いがない事を確認した上で、そのまま流用します。(手抜きで何が悪いw)

過去の官庁のうんちくなので、興味ない方は読み飛ばせばいいさ。

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「逓信(ていしん)」とは、郵便や電信・電話などの通信事務を順次取り次ぎ、音信を送ることを指す言葉です。明治時代から昭和中期まで存在した通信・運輸を管轄する中央官庁「逓信省」の略称としても知られます。

近代日本の情報・物流インフラを統括する巨大官庁であり、現在の郵政省(現・総務省)や電気通信省(現・NTT)、運輸省(現・国土交通省)の基礎となりました。

■主な特徴と歴史
・設立と役割
1885年の内閣制度発足に伴い、工部省の電信・灯台、農商務省の駅逓(郵便)・管船部門を引き継いで発足。

・管掌範囲
通信(郵便、電話、電信)だけでなく、海運、航空、電気事業の監督、郵便貯金・為替・簡易保険などの金融業務も所管。

・変遷
1943年に戦時体制下で運輸通信省へ統合されたが、1946年に再設置。最終的に1949年、GHQの意向により、郵政省と電気通信省(後のNTT)に分割・解体された。

名称の由来
「逓信」とは「次々と通信を取り次ぎ送ること」を意味する。

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ってことで、ここまで。

つまり「逓信省」を一言で言うと「郵便やら通信などいろいろやっていた官庁」でした。
郵便マークの「〒」は逓信省の「て」である。

いま「へー」って思った読者の諸君、よかったね勉強になって。

 

◆建っていた場所(当時の古地図)

◆建っていた場所(当時の古地図) 今はなき「逓信省」が銀座の外れに建っていたお話

明治初期1880年頃の地図です。「逓信省」の文字が見えますが、まだTOP画像の建物は建てられていないようです。
当時の住所は「京橋区木挽町8丁目1番地」
これだけでは、どこかわからないかもしれませんが、左側は現在の汐留エリアの旧新橋停車場。
右下の海軍兵学校の場所は、のちに築地場内市場や国立がん研究センターになってます。

◆現在の地図

◆現在の地図 今はなき「逓信省」が銀座の外れに建っていたお話

当時の地図に逓信省を囲った赤丸を現在の地図と同じ位置に置いてみました。現在の昭和通りのあたりです。

昭和通りは1923年(大正12年)の関東大震災後の復興事業として、"後藤新平"の主導のもと計画され、その名のとおり昭和の初め頃に整備されました。(観光検定受ける方は覚えておくように)

TOP画像、建物の前の川は汐留川かと思われるので、おそらく青色の四角を置いた位置に建っていたのでしょう。
この場所、現在の銀座郵便局が建ってます。中央官庁ではなくなりましたが、そのままその場所を引きついでおります。昭和通り側の隣には数年前に解体された「中銀カプセルタワービル」が建ってました。

◆建物について

◆建物について 今はなき「逓信省」が銀座の外れに建っていたお話
 今はなき「逓信省」が銀座の外れに建っていたお話

先ほどの古地図は1880年頃のものなので、まだ逓信省の建物は立っておりません。
ここは郵便電信の研究機関と資材倉庫のあった場所だったとのこと。

明治15年(1882)11月1日に、まず工部省電信局が移転してその場所を管理しはじめました。
一般の利用者向けには潮留電信取扱所も同日に設置され電報業務を開始。

しかし、工部省は3年後の明治18年(1885)内閣制度の創設時に廃止され、電信部門は逓信省に移管されました。

当時この場所で工部省電信局の新庁舎が建設中で、明治19年(1886)に、電信部門が移管された逓信省本省が入居することになったと。

この逓信省庁舎は明治40年(1907)1月22日に起きた火災で焼失。
第二号館(渡辺譲・辰野金吾設計の旧本館)から出火し第二号館に加え第一号館(増築建物)にも延焼。

TOP画像の逓信省庁舎は同じ場所に焼け残りの分に修繕を加えながら、赤煉瓦に白石の帯をまわしたネオ・バロックの壮大な建物に再建。逓信省技師の吉井茂則氏・内田四郎氏の2名が自ら設計しました。

時代は長く続きません。大正12 (1923)年9月1日11時58分に関東大震災が発生。
付近で起きた火災の延焼により、焼失してしまいました。

消失したあとも、この場所は逓信及び郵政事業のために使用され、昭和43年(1968)9月に東京南部小包集中局が置かれ、東京中央郵便局の小包関連の業務が移管されました。

平成3年(1991)3月29日には大口郵便物の集中処理専門局である銀座郵便局が設置され、今日にいたるようです。

◆現代の風景

◆現代の風景 今はなき「逓信省」が銀座の外れに建っていたお話

銀座郵便局です。こちらの建物、正面があるのか分からんが、撮影しても半端な絵面で絵にならない建物。そして「検査業務発祥の地」の碑が左下にあります。

先ほど、逓信省への組織変遷により工部省が明治18年(1885)廃止されたと記載しましたが、”ここはかつて工部省電子寮の碍子(がいし)試験所があり、同所が発足した明治9年(1876)に電信用碍子の電気試験を行ったのが、物品購入検査のはじまりとされている”、とものしり百科に書いてます。

ちなみに「がいし」とは電気を絶縁し、電線を支えるための器具です。鉄塔についている白いそろばん玉のようなアレです。

 今はなき「逓信省」が銀座の外れに建っていたお話

手前には浜離宮前踏切跡。国鉄踏切警報機が保存されてます。
今は踏切しか残されてませんが、旧国鉄汐留駅から、築地市場内にある東京市場駅まで鉄道が敷設されてました。
この「東京市場駅」という駅名は以前はものしり百科に記載されており、過去観光検定に出題されました。
「築地市場駅」じゃなく、なぜ「東京市場駅」にしたのだろうか・・

 今はなき「逓信省」が銀座の外れに建っていたお話

汐留川を挟み、カレッタ汐留側の歩道橋から撮影。TOP画像とだいたい同じ視点だと思われます。
ご覧のように高架が邪魔で全体がよく見えない。

この場所にTOP画像の壮大な建物があったなんて、なかなか想像が難しいけど、あったんだろうね。

おしまい